支援者インタビュー〈大竹 章さん〉(前編)

インタビュー

Profile
大竹 章(おおたけ・あきら)さん……1925(大正14)年生まれ。1944年に徴兵検査を受け、ハンセン病と診断され兵役免除となる。同年、多磨全生園に入所。1964年、全患協(*現全療協)本部が長島から多磨に移管されたことを機に全患協本部事務局に勤務。広報部長、情宣部補佐として、おもに全患協(現・全療協)ニュースの編集にあたった。1969年、再建された多磨全生園自治会の主任書記に就任。高松宮記念ハンセン病資料館の開館準備では全国の療養所を訪ね、展示資料の収集、展示立案など、中心的役割を果たした。1993年、高松宮記念ハンセン病資料館運営委員に就任。編纂委員を務めた書籍に『全患協運動史』『倶会一処』『復権への日月』、著書に『らいからの解放─その受難と闘い』『無菌地帯─らい予防法の真実とは』『ハンセン病資料館(佐川修氏との共編著)』などがある。

 

多磨自治会長・松本馨氏の発案から
始まったハンセン病資料館構想

──大竹さんは1969年、多磨全生園自治会が再建された際に主任書記になり、以来22年間務められたと聞いています。いわゆる「らい予防法闘争(1958年)」以降の多磨全生園は、どんな雰囲気だったのでしょうか。

予防法闘争を闘ったあとで、入所者は闘いに負けたんだ、ということがよく言われました。実際、予防法を改正、あるいは改悪されてしまう結果に終わったわけですが、しかし入所者は負けたとは思わなかった。闘争のなかでいろんな経験をして「社会」を見てしまった。これがじつに大きかったです。

長年ひとつところに隔離されていた者たちが、動員されて電車に乗り、国会座り込みの現場まで行き来するうちに、それまで見たことのなかった「社会」を経験した。そのような経験をした者たちは、もはや法律に縛られることなしに、柊の垣根を抜けて外へ労務外出──たとえば土方をするとか、あるいは外から内職の仕事をもらってくるとか、さまざまな仕事をすることで、足りないお金をなんとかして手に入れようとした。

そうなると自治会なんていうのは、安い手当で小間使いみたいに扱われて、あんな馬鹿馬鹿しい仕事はないということになってくる。園内でも自治会役員のなり手がいなくなってしまったわけです。それで自治会そのものがつぶれてしまった。でも、つぶれてみると、やはり自治会がなきゃ駄目なんですよ。とくに身体の不自由な人たちなどは、自分たちの要求をもっていく場所が、なくなってしまうわけですから。

──そういった経緯を経て1969年に多磨全生園自治会が再建されたわけですか。

そうです。それでまた自治会を作ろうということになった。あたらしい自治会は軽症者はあてにしないで、不自由者でもやれる自治会にしようということで、たとえば執行委員も、目の見えない者でも就任できるようにした。その代わり書き物なんかは専門の部署が扱うようにしようということで、書記部をつくったんです。その主任書記に、私がなったわけですがね。そういう形であたらしい自治会が始まった。最初は平沢保治が会長になって、1974年からは目の見えない松本馨(*1)さんが会長になった。そのときに松本さんが画期的な案を発表したんです。

*1 松本馨(まつもと・かおる)氏。多磨全生園で寮父を務め、この頃教えを受けた子どもたちのうちに谺雄二氏、山下道輔氏などがいた。失明後も活発に活動を続け、多磨全生園自治会再建、『全患協運動史)』『倶会一処』などの編集指導など、業績は多岐にわたる。1974年から1987年までの13年間、全生園自治会長職を務めた。2005年没。

今までの私たちの運動は予算を要求する、厚生省(当時。現・厚労省)を相手に闘う、そういう運動だったわけだけれども、これからは予算獲得のためだけでなしに、今まで自分たちがどういう風に生きてきたか、こういったことをきちんと見える形で後世に残そうと、そういう方針をたてた。

当時、全生園には図書館はありましたが、いわゆる資料館のようなものはありませんでした。図書館というのは、自治会が建てたコンクリートの建物です。といっても当時、ちゃんとした書籍を読むやつなんて、全生園の園内にはほとんどいなくなっていた。

──旧秩父舎跡に建っている建物ですね。今も「ハンセン氏病図書館」という看板があります。

そこで松本馨が、従来からある図書館は廃止して、代わりにハンセン病に関するものだったら「らい」という言葉がひとこと入っているだけでも収集の対象にする、そういう施設をつくろうと言い出した。ハンセン病に関する書籍・文書の収集を、あたらしく図書館の仕事にしたわけです。

当時、図書館で主任をしていたのは山下道輔(*2)で、彼は松本馨が少年舎の寮父をしていたときの教え子だった。図書館の外にプレハブの小屋を建てて、そこへ入所者がこれまで使ってきたものを集めておく、図書館を拡充して展示室をつくり、歴史に沿ったわかりやすい展示をして、興味のある人に物資料を見てもらう。そういう試みもやっていました。

*2 山下道輔(やました・みちすけ)氏。1929年生まれ。ハンセン病図書館主任を長年務め、現在あるハンセン病資料館の礎を築いた人物のひとり。12歳で国立療養所多磨全生園に入所、少年舎で寮父をしていた松本馨氏から薫陶を受ける。当時の少年舎には、後に詩人として名をなす故・谺雄二氏もいた。著書に『ハンセン病図書館──歴史遺産を後世に』(柴田隆行編。社会評論社刊)がある。2014年10月没。

──そのような経緯を経て1993年に高松宮記念ハンセン病資料館が開館するわけですが、このとき全国の療養所をまわって展示資料を集めたのが、大竹さんと佐川修(*3)さんだったと聞いています。

*3 佐川修(さがわ・おさむ)氏。1928年韓国全羅南道生まれ(園の公式記録では1931年)。韓国名・金相権〈キム・サングォン〉。1964年に全患協の初代渉外部長に就任、全患協ニュースを担当する情報宣伝部長などを歴任。2006年より多磨全生園自治会長。『全患協運動史』『倶会一処』の執筆(いずれも光岡良二、氷上恵介、盾木弘、大竹章、各氏との共著)も手がけた。2018年没。

藤楓協会の創立40周年の記念事業として資料館をつくる話が決まって、我々もカンパを募ったりとか、いろいろと協力をしたわけです。それと並行して多磨全生園の自治会も資料館建設委員会のようなものをつくって、展示をどうすべきかという検討を始めた。結果、誰か資料の分かる人を各園に巡回させてくれということになって、多磨支部の委員会の方から大竹と佐川で全国を回れという話がきた。2人で資料集めをすることになったのは、そういうわけです。

私と佐川さんが一緒に行ったのは青森から奄美大島までで、沖縄の2園、これに関しては成田園長(*当時)と佐川さんが行ったことになってるんだけれど、本当に行ったかどうかはわからない。報告では行ったけれども、何もなかったということになっている。砲弾の薬莢を途中で切って煙草盆にしたもの、それから貝殻。このふたつだけもって帰ってきた。沖縄から来たものはそれだけです。

私と佐川さんは松丘保養園(青森)から奄美和光園(奄美大島)まで、丁寧に園内を回って、それぞれ資料を送ってもらったけれども、そのときに長島愛生園(岡山)や菊池恵楓園(熊本)の人間は、今度つくる資料館の名称は高松宮となってはいるが、実質は多磨支部(*全生園自治会)がやってると思っていたようです。そんなこともあって長島と菊池からは、貴重な物資料は、あまりもらうことができなかった。彼らは自分たちで資料館をつくろうと考えていたからね。

高松宮の名をめぐる異論と議論。
世界にも稀な資料館は、手作りでつくられた

──物で埋め尽くされていた高松宮記念ハンセン病資料館展示の方が、迫ってくるものがあった、という声も耳にしますが、現在の資料館の展示については、大竹さんはどう思っていますか。

常設展示の最初に雑居部屋の展示をもってきたのは、ベートーベンの交響曲・第5番みたいなものでね、これはパンチが効いていたと思う。だけど雑居部屋の向こう側、展示部分が始まるところのあり方というのは、じつに精神分裂だと感じました。テーマによって統一されていない。ここが今ある資料館展示の一番の弱点だと思います。あそこだけ見ても、現在の展示が抱えている問題点というものが、端的にわかります。

たとえば、島における生活用水というものをどういう風に理解するか。たしかに資料館には大島青松園の溜池の写真が展示されているけれども、水の問題を島の歴史と絡めて説明しなければ意味がない。大島ってところは、島の片側が山になっていて、その山の周りにU字溝をずっと掘って、池にたまった雨水を飲み水にしてきたわけです。工事をやって飲み水を確保したのは入所者、患者たちです。本来、飲み水のまったくない島へ患者を収容する、そういうことを計画したからこそ、こういった苦労をしなければいけなかった。

長島や大島で私たちが見つけてきた送水管というのは、その後、本土から水道が引かれたときのもので、そういう歴史が背景にある。高松宮記念資料館の時代には、その送水管を切って断面を展示していたけれども、現在の資料館では展示用に短く切って、明治の勲章みたいな、しゃれた飾りもののようにつくってある。しかもまったく違う場所に3ヵ所に分けて置いてある。それでは駄目で、長島や大島の水の話をするときには、今話したようなことも一緒に語るような展示でなくちゃいけない。

そういった展示のしかた、言ってみれば「すき間のある置き方」になぜなってしまうかというと、結局のところテーマ意識がないからでしょう。あれじゃ見る人に、肝心なことが伝わらないだろうと思います。

──あらたにつくられる資料館に「高松宮記念」という冠がつくことに対して、当時、各園から意見、異論などはあったのでしょうか。

佐川さんと各園を回っていたときに、何ヶ所かで、それと同じ質問をされました。今回つくることになった資料館は、ハンセン病の歴史を再現して啓蒙に使おうという話らしいけれども、その施設になぜ「高松宮」の冠がつくのか。おれたちは何でもかんでも頼まれれば協力するなんて言っちゃいない。協力するからには納得できるちゃんとした答えがなければいけない──そう言われた。

資料館設立は藤楓協会創立40周年記念事業だから、協会の総裁である高松宮の名前は、つけないわけにはいかない。しかし、そこでやろうとしていることは、明治時代から今日までのハンセン病事情を紹介することが目的である。資金面や、さまざまな事情もあって宮家の名前を使ったりもしたが、それはやむを得ないことで、それよりも問題は、展示によって我々が何を示すかにある。

──各園の人たちは納得してくれたんですか。

言葉だけじゃ納得できない人も当然いたでしょう。だからそれについては、私と佐川さんを信用するかどうかで決めてくれ、と言ったんです。私も佐川さんも、全療協(*4)ニュースを初めとして、さまざまな媒体や書籍に長年文章を書いてきた。そういったものを読めば、我々がどんな人間かということが、判断できるはずだ。そういうことで、なんとか了解してもらって、資料集めにも協力してもらえることになったんです。

*4 「全国ハンセン病療養所入所者協議会」の略称。前身は1951年に結成された「全国ハンセン病患者協議会(全患協)」で、全療協への名称変更は1983年におこなわれた。全国13ヵ所のハンセン病療養所自治会が支部として参加する協議体で、議決は協議による全会一致を原則とする。

〈後編へつづく〉

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