僕のなかの「全生園物語」
亀井義展
全生園での新生活はじまる
1981年秋、僕は仙台から東京の東村山市にある「国立療養所多磨全生園」にやってきた。園内は一度や二度足を踏み入れたくらいでは迷子になるほどの広さがあり、まるでひとつの村のようだった。当時全生園の園内には、まだ千人近い回復者の方たちが暮らしていた。
郵便局、ショッピングセンター、全生学園(*全生園で暮らす子どもたちの通う小中学校。1979年休校)旧校舎、野球場、教会やお堂があり、園の東端には故郷へ帰ることのできなかった数千名の遺骨が納められた、旧納骨堂があった。園内のあちらこちらでは盲導鈴(*1)の音が鳴り響き、どこか今までとは違う世界にいるような、不思議な気分になった。この国の強制隔離収容政策の象徴であり、「我と彼を隔てるもの」だった土塁と掘こそ、もう目にすることはなかったが、園の広い敷地は柊の垣根でぐるりと囲まれていた。
*1 盲導鈴(もうどうれい) 視覚障害者のために備え付けられた現在で言うところの音声誘導装置。鈴の音が道順や場所の目安となった。全生園に導入された初期の盲導鈴は風力で鈴を鳴らすものだったが、その後、スピーカーへと順次変更された。流される音は電子音やメロディなど各園によってさまざま。
僕のあたらしい住まいは職員地区のなかにある旧い木造宿舎だったが、そこはまるで時代劇に出てくるオンボロ長屋のようだった。古びた畳の部屋にお日さまの光が差し込んでくることはなく、両隣の部屋との仕切りは薄いベニヤ板一枚。(なんだか侘しい部屋だなあ。好きな映画のポスターでも貼っとこ……)と思い、ポスターを貼ってみたが、画鋲は隣の部屋まで突き抜けてしまった。
トイレは汲みとり式の「ぽっとん便所」(ウンコをすると、ぽっとんと音がするんや)で、誰かが夜中に用足しをすると、その音が宿舎中に響くという、レトロで愉快なところだった。
なんと浮世離れしていることか。一方、外の世界では『窓ぎわのトットちゃん(黒柳徹子著)』がベストセラーになり、夜でもサングラスを外さない寺尾聰が歌う「ルビーの指輪」が大ヒットしていた。
僕が全生園に入ったちょうどその年に、盲人の方たちがつくる団体「多磨盲人会」で世話係の切り替えがあった。それまでは療友(*療養所の入園者、仲間をあらわす呼び名)が盲人会の世話係をしていたが、それが職員による世話係へと変更されることになったのだ。僕も盲人会職員として働くことになっていた。
仙台での今泉との付き合いと看病、学生寮でも目が不自由だった友人の金ちゃんと一緒に暮らしていた経験から、僕自身は生活介護の仕事をやってみたいと思っていた。しかし、全生園へ呼んでくれた松本馨さんから直々に「盲人会の世話係をやってほしい」と言われてしまったら、これは断るわけにはいかない。僕はふたつ返事で世話係の仕事を受けることにした。
盲人会で最初に頼まれたのは、会長である汲田さんの書記のような役割だった。ところが生来机に向かう事務仕事が大の苦手だった僕には、これはひどくつらい仕事だった。その上、どうも汲田さんとウマが合わなかったようで、なにかと言えば汲田さんや事務所の上司と衝突ばかりしていた。
(わがままでどうもスミマセンでした!)
そんな様子を見かねて、盲人会の副会長・坂井(春月)さんと理事の大石さん(*2)が、「汲田さんでは亀井さんをうまく使えない。市川さん(*市川昇氏。テープライブラリー担当理事)なら大丈夫だから、ライブラリー担当に移してあげた方がいい」と救いの手を差し伸べてくれた。
(今も感謝しています!)
*2 大石栄一氏。盲人会理事のほか、将棋部も担当。それ以外にも俳句を詠んだり、ハーモニカバンドに参加したりと多芸多彩な方でした。
ライブラリーの仕事は、全国の療養所から送られてくる機関誌の朗読テープ作りや、日本点字図書館から貸し出される書籍・雑誌などの朗読テープをダビングして各療養所へ配送すること、あとはテープの園内への貸出しがおもなものだった。ほかに入園者からリクエストのあった書籍、新刊本の朗読をボランティアの方に依頼するという仕事もあった。
ライブラリーの仕事が済むと、午後は盲人会・会員の方からの手紙、短歌、俳句の代筆や代読をしたり、将棋部の棋譜を読んだりした。短歌や俳句など、それまで触れたこともなかった僕は、とりあえずひらがなで言われた内容を書き留めて戻り、市川さん、坂井さんや、職員切替の前に世話係をしていた天野(秋一)さんたちに、わからない漢字、歌や俳句の意味するところなどを、ひとつひとつ教えてもらった。
代読するときも、見たこともない漢字が出てくると、盲人の市川さん、坂井さんに「こんな形をした字なんだけど……」と伝えれば、ほとんどの場合、どんな字で、どう読んだからいいか、たちどころにわかった。僕は(市川さんや坂井さんの頭の中には、一体なにが詰まっているんだろう……)と驚くばかりだった。
将棋部の担当だった大石さんからは、初めて会ったとき開口一番「亀井さん、将棋できる? 棋譜読める?」と尋ねられた。「下手だけど駒を動かすくらいはできます。棋譜も読めると思います」と答えると、「そうか。よかった、よかった!!」と、とても喜んでくれた。大石さんは、真っ正直でちょっとおっちょこちょい、少年のままの心をもった、やさしい人だった。
亀井義展(かめい・よしひろ)
学生時代にフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)主催の韓国ハンセン病快復者定着村・労働キャンプ参加。その後仙台の本屋で『倶会一処 患者が綴る全生園の70年』を手にし、当時の多磨全生園入園者自治会会長・松本馨(まつもと・かおる)氏に手紙を書く。それが縁となり1981年秋より多磨全生園で盲人会、入園者の生活介護の仕事に従事。1998年に退職後、精神保健の作業所、グループホームなどで働く。2017年、友人の紹介で救世軍自省館(清瀬市)で働くことになり、およそ20年ぶりに全生園に通うようになった。