僕のなかの「全生園物語」
亀井義展
愛すべきおじい、おばあとの出逢い
盲人会で2年半ほど務めたあと、僕は園内の不自由舎・第1センターへ異動となり、初めて生活介護員として働くことになった。
その頃の不自由舎は、新センター(特重)、第1センター(重)、第2センター・第3センター・第3東センター(軽)と分かれていて、ほかに病棟と比較的後遺症の軽い方たちが暮らす一般舎があった。
不自由舎センターの介護員として働くことに不安もあったが、「ようやくオレの出番がやってきたか……」という期待も膨らんでいた。社会経験も生活経験も薄っぺらな駆け出しの介護員ではあったが、以前から食堂のおばちゃん、旅先のおばあちゃんと仲良くなるのが得意だったので、百戦錬磨のオバサマ介護員さんたちともすぐに親しくなり、イチから仕事を教えてもらった。
まずは目の見えない、知覚マヒの後遺症のある人たちへのお茶や食事の出し方。
──火傷をさせないように
掃除のしかた。
──ハタキはひと所に3回かける。ほうきは丸く掃かず、四角く掃く
洗濯物の干しかた。
──なるべく北向きに干さない
等々、生活補助の術を教えられ、ひとつずつ身につけていった。
次はお風呂の介助だったが、僕は下ネタ大得意の上、頭髪や身体を洗うのが上手かったようで、これはその後もずっと得意分野になった。
午前中、介助風呂が始まる放送がセンター内を流れると、杖をつきながら……車イスを押してもらいながら……ひとりふたりとお風呂にやって来られる。
きくおばあは豪傑で、腰巻一枚で豊かなおっぱいを揺らしながらコンコンと杖を鳴らしてやってくる。たまに女性職員が「きくさん、何か着て来てョ」と諭しても、まったく意に介さなかった。
おばあは福島県出身で、仙台から出てきた僕のことを「あんちゃん、あんちゃん」と呼んで可愛がってくれた。
センターのお風呂場は広く、不自由なお年寄りたちと介護員を交えた賑やかな社交場でもあった。
第1センターには相模、信濃、伊勢山城といった土地の名前がつけられた、6つの寮があり、東西それぞれにたしか7〜8名の不自由な人たちが個室(*)で暮らしていた。介護員数名が2ヵ月おきに交代で各寮を受けもち、暮らしのお手伝いやお世話をしていた。
*かつては「雑居部屋」といって、ひと部屋に8人もの入居者が暮らすこともあったが、全患協(現・全国ハンセン病療養所入所者協議会=全療協)などの長年の闘いによって個室化された。
我が青春の「さがみ奮闘日記」
1985年8月には、日航ジャンボ機が群馬県山中(御巣鷹山の尾根)に墜落、乗客・乗員合わせて520名の方たちが亡くなり、日本中が大きな哀しみに包まれた。亡くなった乗客のなかには「上を向いて歩こう」の坂本九さんもいた。
その年の秋、僕は初めて「さがみ寮」を受けもつことになり、大好きなじいちゃん、ばあちゃんたちと出会うことになった。今も忘れることのない「さがみ」での日々を僕は生活日記のように記していた。
『さがみ奮闘日記』(1985年10月〜11月 *当時の日記より)
10月13日
風が強く吹き、部屋の換気扇のフタがガタガタ鳴る。チーばあちゃんとオーばあちゃんが、「カメちゃん、なんとかしておくれョ。うるさくてしょうがないョ」と言うので、仮にガムテープで留めておいた。
午後、マーじいちゃんは運転手付き車イスで散策に出発。帰宅後、おしもの方が濡れているので着替えをするが、その最中にオシッコが出始めた。
「もう止まらんぞ!」
「いいから、いいからやっちゃえ!!」
夕方、じいちゃんの声がするので行ってみると、「我々をここに閉じ込めておこうとしている奴がいる。なんでそんなことをするのか。我々をここから出られなくして、何か儲けるつもりなのか……」と声を荒げて訴える。
じいちゃんは何を思い、あんなことを言ったのだろう……
宿直勤務の夜、ヤスさんの心臓は少し落ち着いてきたようだ。ヤスさんが口ずさむ。
♪静かな静かな 里の秋
小瀬戸に木の実の落ちる夜は
嗚呼かあさんと ただふたり♪
(なかなか調子いいぞ!)
♪さよなら さよなら……
(しばし沈黙)
あれっ??
「学校(ふれあいコーラス会)にあがったばっかの頃の歌だョ。まんだ1年生のときだョ」
ヤスさんは名古屋弁丸出しである。
10月19日
ヤスさんの心臓の具合は、まだはっきりしないようだ。
「来週の演奏会、出られないんじゃない?」
「熱がなけりゃ、ねじりハチマキで行くョ。舞台で死ねりゃ本望だョ」
「アハハハハハ……」
「役者みたいなこと言っとるョ。歌い始めてから途中で薬(ニトロ)飲んで、またやったこともあったョ。まわりの人たちが“敢闘賞をやれー”って言ってくれてなぁ……」
10月24日
今日は文化祭行事のふれあい演芸会。ふれあいコーラスや民謡会の発表会があり、第1センターの皆さんも大勢出演。さがみ寮西は大半がコーラス員で、みんなちょっぴりオシャレして出かけた。
このところ爆弾(心臓発作)をかかえたヤスさんも、コーラス、民謡ともに出演し、頑張りました。
マーじいちゃん、レシカル(お通じの坐薬)入れる。15分ほど付いていたが、オナラしか出ない。ちょっと目を離してた間に催したようで、またまた一騒動。じいちゃん、ごめんね。今度はうまくやるョ。
10月30日
マーじいちゃん、午後のひとときの会話。M看護師さんが来て、一緒に日本シリーズを観戦。
「ほら、じいさん、カットバセ! カットバセ! って応援しよう。カットバセー!!」
「……言ったって聞かねェもんな……」
おしまい。
11月2日
お昼前、マーじいちゃん「家へ帰る」とひとりで出かけようとする。車イスで外へ連れていくと、
「こんな方へオレは行かない。どこへ連れていくんだ……」
「じいちゃんの行きたいところへ連れていくから。そう遠くへは行けないけど、この車で行けるところなら、どこへでも行くョ。じいちゃん、決めな」
と言うと、
「お前さん、厳しい人だねェー」という答えが返ってきた。
散々ゴネられて参ったが、部屋に戻るとじいちゃん、机の上のみかんを指さして「これ、半分ずつして食べよう……」と言う。
こういうひと言に僕は弱いんだ。ホロっとして、2人で仲良くみかんを分け合い、食べた。
11月5日
マーじいちゃん、定期診察日。
「じいちゃん、──先生がじいちゃんの診察したいから来てほしいって言ってるョ」
「オレはどこも悪くないから行かねェ。そのうち行くって言っとけ!」
だってさ……。
11月7日
久しぶりに電話で話した養護学校に勤めている友人の話。
「その子にとって、役に立つようなことがなされていても、その子の世界が豊かになるように……ということは考えられていない」
うちの老人たちにも、同じことが言えるのではないだろうか。
たとえばマーじいちゃん。じいちゃんにとって、おもらしをしないことや、お風呂に入ることはもちろん大切なことなのだろうが、それだけでは足りないんだ。
ときに怒鳴ることもあるし、宿直の夜は大変だが、どこか憎めなくて「じいちゃん、じいちゃん」とみんなから人気がある。しかし、それだけでは何かが足りない。
「そろそろ家へ帰ろうョ。ここはいくら居ても慣れないんだョ……」
という、じいちゃんのつぶやきに応えることばが、僕にはまだない。
おしもの世話で着替えを手伝っていると、おじいは自分の男根を見つめ、ちょっと寂しそうに
「随分毛が少なくなったねェ……」
と言った。
雑感 ──マーじいちゃん
何と言っても、一世紀近くも
この世と人間どもを見てきた「おじい」だ
生半可な関わりをしていると
たったひとつの喜びも
たったひとつの楽しみも
おじいに届けることはできない
だが、おじいはそんなことを
あてにしてはいないし
もちろん
とがめることもない
気が向くと癇癪を起こしてみたり
笑ってみたりするだけなのだ
おじいは手強い
もっとしなやかに
もっとしたたかに
そして
もっと真剣に
(1985.11.7)
亀井義展(かめい・よしひろ)
学生時代にフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)主催の韓国ハンセン病快復者定着村・労働キャンプ参加。その後仙台の本屋で『倶会一処 患者が綴る全生園の70年』を手にし、当時の多磨全生園入園者自治会会長・松本馨(まつもと・かおる)氏に手紙を書く。それが縁となり1981年秋より多磨全生園で盲人会、入園者の生活介護の仕事に従事。1998年に退職後、精神保健の作業所、グループホームなどで働く。2017年、友人の紹介で救世軍自省館(清瀬市)で働くことになり、およそ20年ぶりに全生園に通うようになった。