僕のなかの「全生園物語」(4)

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僕のなかの「全生園物語」
亀井義展

「復活の日」

 東京へ戻ってくる前、僕は実家のある愛知で、家族の看病と介護をしながら、働き暮らしていた。
 その数年間の間に次々とやってきたできごと──自分自身の大馬鹿さ加減、ふがいなさ──こうしたものすべてに僕は打ちのめされ、心が壊れそうになっていた。それでも「なんとかもう一度立ち上がりたい……」と思い、やっとのことで旅に出て、山深いブナの森を7日間、ひたすら歩き続けた。その旅からの帰り道、東京都清瀬市にある救世軍(*キリスト教系の慈善団体)で働く友人と会い、「ウチで働いてみる気ある?」と声をかけられた。

 清瀬の救世軍は多磨全生園からもほど近い。懐かしい土地、しかも恩人たちが眠る納骨堂の近くで働き暮らせることは、今の自分にとって「あたらしい始まり」へ向かう、いい機会になるかもしれない……そう思った。

 その年の秋から僕は救世軍で働くことになった。休日に全生園を訪ねるうちに、盲人会で知り合ってからずっとお世話になっていた坂井さん(*1)、天野さん(*2)と再会することができ、「やさぐれ会」の同志たちとも出逢うことができた。

*1坂井春月(さかい・しゅんげつ)氏。 1920年生まれ。1932(昭和7)年に全生病院入院、17歳のときに失明する。長年にわたって多磨盲人会を支え、還暦を機に歌人としても精力的に活動した。2009年に歌集『ナナカマド』を上梓、2016(平成28)年に出版された歌集『続・ナナカマド』は出身地である新潟県で出版文化賞・優秀賞を受賞。2019年没。享年99歳。

*2 天野秋一(あまの・あきかず)氏。 1923年生まれ。1940(昭和15)年に多磨全生園に入所。1961(昭和36)年から園内にある全生学園に教員として勤務、数多くの子どもたちを教える一方で、自治会役員なども長年にわたって務めた。1981年10月盲人会の職員切替にあたり、数多くのアドバイスをしていただいたのが天野さんだった。2019年没。享年96歳。

 ふたたびこの地で暮らす日々と、資料館企画展で話をする機会をくれたのは、旧い友人と、あらたに出逢った仲間たちだった。僕は全生園の恩人たち、今はもういないじいちゃん、ばあちゃんたちが、「亀井さん、もう一度ここに戻っておいでョ……」と呼んでくれたような気がしていた。

 資料館企画展のイベント「元職員が語る多磨盲人会」が終わった夜、会場にやってきてくれた仲間たちが集まって、夜遅くまで賑やかに打ち上げをした。仲間たちと一緒に、「マイ・ブルー・ヘヴン 私の青空」を何度も歌った。

 翌朝、僕は真っ青に晴れあがった空を見上げ、お世話になった恩人の松本馨さん、市川(*昇)さん、じいちゃんばあちゃんたち、先に逝った家族や仲間たちに向かって、

「おれ、復活したョ !!」

 とつぶやいた。東京に戻ってきてから、2年目の秋空だった。

暖かき人の心に守られて 行き来し日々を今にし思う
坂井春月(歌集『ナナカマド』より)

 

亀井義展(かめい・よしひろ)
学生時代にフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)主催の韓国ハンセン病快復者定着村・労働キャンプ参加。その後仙台の本屋で『倶会一処 患者が綴る全生園の70年』を手にし、当時の多磨全生園入園者自治会会長・松本馨(まつもと・かおる)氏に手紙を書く。それが縁となり1981年秋より多磨全生園で盲人会、入園者の生活介護の仕事に従事。1998年に退職後、精神保健の作業所、グループホームなどで働く。2017年、友人の紹介で救世軍自省館(清瀬市)で働くことになり、およそ20年ぶりに全生園に通うようになった。

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