僕のなかの「全生園物語」
亀井義展
初めての異国で知ったこと、考えたこと
1979年夏、僕は韓国にある「ハンセン病快復者定着村」にいた。
その頃、僕は仙台にある大学の学生寮で暮らしていたが、じつのところ、ひどい不良学生だった。大学の講義にはまったく足を向けず、造園の仕事で一日中スコップを手に穴を掘ったり、学内にある食堂で、盛り付けや皿洗いのアルバイトをしたり。そうやって少しばかりのお金が手に入ると、東北の見知らぬ土地を、リュックと寝袋を背負って、ひたすら歩く旅をしていた。
アルバイトのない暇な時期は、仙台の街や広瀬川沿いをうろつきながら、古本屋や名画座、馴染みの喫茶店などに立ち寄り、夜になると学生寮の先輩や仲間たちと麻雀ばかり打っていた。
そんな暮らしの中にも「おれはこの先、どうやって生きていくんだろう……」という漠とした焦燥感はあって、福島の山奥にある共同体(コミューン)に暮らしたり、奈良の「大倭紫陽花邑(*1)」を訪ねたりした。
*1矢追日聖〈やおい・にっしょう〉を教祖とする大倭教〈おおやまときょう〉が1947年につくった生活共同体。所在地・奈良県奈良市大倭町。老人ホーム、身体障碍者施設、病院なども運営している。
「思想の科学」という雑誌で、フレンズ国際労働キャンプ(FIWC)が毎年夏に韓国の定着村でワークキャンプをおこなっているのを知ったのも、同じ頃だった。ワークキャンプに参加するため、僕は下関からフェリーで釜山へ、そこから鉄道で大田に向かった。
初めて踏んだ異国の地だった。
ワークキャンプでは、2週間ほど村の水道工事や道路の工事で汗を流し、夜は村の人たちと交流する日々が続いた。キャンプが終わってから、しばらく韓国内を旅して歩いたが、初めて飲むマッコリは下戸の僕にも美味く感じられたし、田舎町で写真を撮っていたら警察に連行されそうになるといった事件もあった。当時、韓国では旅行者が施設や街の写真を無断で撮影すると、スパイ容疑をかけられることがあった。
ワークキャンプに何度か参加するうち、忠光農園で盲目の長老、金新芽さんと知り合った。日本国内でも奈良にある「交流の家(*2)」で飯河のおじさん、おばさん(交流の家で管理人をしていた飯河四郎、梨貴夫妻)と知り合い、日本にも韓国と同じようにハンセン病を患い、療養所に暮らす人たちがいることを初めて知った。
*2 栗生楽泉園に暮らすロシア人、トロチェフが東京で鶴見俊輔(思想の科学・同人)と面会した際、予約していたキリスト教系宿泊施設から宿泊を断られたことをきっかけとして、FIWCの学生たちが中心となり設立。大倭紫陽花邑内にある鉄筋2階建ての建物は、1964年からおよそ4年をかけ、手作りでつくられた。
1980年には、韓国南西部の光州で民主化運動を弾圧する「光州事件」が起き、その後、金大中氏の死刑判決ニュースが世界を駆け巡った。
僕も仙台で韓国大使館への抗議デモや市民の抗議活動に参加していたが、同じ頃、親友の今泉が重い病気にかかり、闘病生活を強いられていた。
亀井義展(かめい・よしひろ)
学生時代にフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)主催の韓国ハンセン病快復者定着村・労働キャンプ参加。その後仙台の本屋で『倶会一処 患者が綴る全生園の70年』を手にし、当時の多磨全生園入園者自治会会長・松本馨(まつもと・かおる)氏に手紙を書く。それが縁となり1981年秋より多磨全生園で盲人会、入園者の生活介護の仕事に従事。1998年に退職後、精神保健の作業所、グループホームなどで働く。2017年、友人の紹介で救世軍自省館(清瀬市)で働くことになり、およそ20年ぶりに全生園に通うようになった。