僕のなかの「全生園物語」
亀井義展
「アイ・シャル・ビー・リリースト」
「声明文」について、園内では共感の声とともに批判も聞こえてきた。僕は、この先自分の身に何が起きようと、受けて立つつもりでいた。
第1センターで働けるのも残り数日となったある日、チーばあちゃんに呼ばれて部屋に行ってみると、
「カメちゃん、ばあちゃんね、H看護部長さんに来てもらって『カメちゃんをどこにもやらないでください』って頭下げて頼んだんだョ。でも部長さんは『それはできないんですよ』って言うんだョ……」
そう言いながら、チーばあちゃんは見えない両目から涙を流していた。
ばあちゃんのこの姿を見たとき、僕は「ここまでだなぁ。今は静かに第1センターを離れよう」と思うしかなかった。
じつは、このできごとには後日談がある。
僕は自分の感情がいくらか鎮まってから、恩人である松本馨さんを訪ねた。松本さんは当時、入園者自治会の会長だったが、盲人で後遺症もあり、第1センターの伊勢寮に暮らしていた。
松本さんは「亀井さん、この声明文を多磨誌(*1)に載せましょう」と言われた。
*1 多磨誌は多磨全生園入所者自治会が毎月発行している機関誌
多磨誌は全国の療養所だけでなく、厚労省や関係機関にも送られ、多くの人たちに読まれる。驚きと戸惑いもあったが、
「松本さんにお任せしますが、さすがに『うすらトンカチ』だけは外した方がいいんじゃないですか?」と訊ねてみた。すると、
「このままで掲載すればいいよ」と言われ、またまたびっくり!!
駆け出しの若い介護員(園内では28歳は若いのであーる)の真っ直ぐな、感情むき出しの声明文は、数ヶ月後の『多磨誌5月号』に掲載された。
(H看護部長は療養所看護の功労者のひとりだったし、この一件を除けば、信頼感をもてる人だったことは書き添えておく)
今なら僕にも、このときの松本さんの心が少しはわかる気がする。
松本さんは、なんの取り柄もない(じいちゃん、ばあちゃんが好きで、お風呂とおしもの世話が好きなだけの)ひとりの若者の『小さき声』を大切にし、守ろうとしてくれたのだと……。
──物語は、しばし2020年、現在の全生園に立ち戻る。
僕は、今年3月に国立ハンセン病資料館から不当解雇された(詳細については、こちらの記事参照)学芸員ふたりの支援活動を、仲間たちとおこなっている。大切な友人でもあるふたりから、この話を聞いたとき、
先人たちの信念と魂が込められた、この地で、資料館問題を内部告発した者を排除するようなやり口は、けっして見過ごすことはできない──そう、心に決めた。
それは、松本さんたちの心を受け継ぐ者としての務めだと思うからだ。
ふたりの支援を呼びかける文案を練っていると、僕の頭のなかに、大好きな清志郎(RCサクセション)の曲が流れてきた。支援活動をともにする仲間たちへ、呼びかけ文の案と一緒に清志郎が歌う「アイ・シャル・ビー・リリースト(*2)」の歌詞をメールで送った。
*2 原曲はボブ・ディランでリリースは1967年。RCサクセションが「原発は危ねェ、原子力はいらねェ」と歌ったアルバム「カバーズ(1988年・東芝EMI)」が発売中止となったことへの怒りを込めたライブ盤「コブラの悩み」に収録
♪アタマのイカレた奴らが
世の中を動かして
このオレの見る夢を
力で押さえつける
陽はまた昇るだろう
このさびれた国にも
いつの日にか、いつの日にか
自由に歌えるさ
いつの日にか、いつの日にか
自由を……♪
亀井義展(かめい・よしひろ)
学生時代にフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)主催の韓国ハンセン病快復者定着村・労働キャンプ参加。その後仙台の本屋で『倶会一処 患者が綴る全生園の70年』を手にし、当時の多磨全生園入園者自治会会長・松本馨(まつもと・かおる)氏に手紙を書く。それが縁となり1981年秋より多磨全生園で盲人会、入園者の生活介護の仕事に従事。1998年に退職後、精神保健の作業所、グループホームなどで働く。2017年、友人の紹介で救世軍自省館(清瀬市)で働くことになり、およそ20年ぶりに全生園に通うようになった。