支援者インタビュー〈中山節夫さん〉(前編)

インタビュー

Profile
中山節夫(なかやま・せつお)さん……1937(昭和12)年、熊本県菊池郡合志村(現合志市)生まれ。多摩美術大学付属芸術学園映画科(現・多摩美術大学)を卒業後、1960年に日活撮影所に入所。1962年よりフリーランスの助監督となる。1970年、熊本で起きた龍田寮事件を題材とした「あつい壁」で映画監督デビュー。ハンセン病差別を正面から採り上げた本作品は、大きな話題となった。2007年、70歳の年に菊池事件を採り上げた新作「新・あつい壁」を撮影。現在も新作の準備に奔走中。

 

子ども時代を過ごした合志
日々の経験から「あつい壁」は生まれた

──中山監督は熊本、それも菊池恵楓園(以下、恵楓園)近くのご出身だそうですね。

熊本県菊池郡合志こうし村、今の合志市の生まれです。戦争当時、菊池恵楓園(以下、恵楓園)の隣に農業公園という、家畜増産のための試験場がありました。小学校と中学校の合計9年間、春の遠足というと、毎回ここへ行くわけです。同じ場所だから、しまいには飽きちゃうんですね。

遠足で農業公園に行くと、遠くに高い壁が見えました。なんだろうと思って先生に訊くと、「あれはハンセン病の患者さんがいるところだ」と教えてくれました。背筋がぞーっとしたことを覚えています。ハンセン病がどんな病気か、恵楓園がどういうところか、当時の私はまった知りません。でも誰が教えるともなく、わずか6歳の子どもが「差別すること」を教えられていたんですね。振り返ってみると、じつに根深いものがあるなと思います。

中一のときには、恵楓園の近くに住んでいる友達3人と療養所に行きました。半分は怖いもの見たさです。当時、恵楓園は増床にともなって深い壕が掘ってあって、鬱蒼とした檜の森がありました。石を拾って投げてみると檜の枝から、ぱっと灰が舞い上がるんですね。あとでわかったんですが、近くに園の火葬場がふたつあって、その火葬場から出た遺灰が降り積もったものだったんです。ものすごく不気味でした。

いま思うと、恵楓園に行ってみようと思ったのも、まわりに高い塀があったからじゃないかと思うんですね。塀がなかったら、あそこまで興味を持たなかったかもしれません。中の人も塀の外を見たいと思っていただろうけれども、子どもの頃の私たちも、塀の中はどうなってるのか興味津々でした。と同時に、「あそこには自分の家に帰りたくとも帰れない人たちがいる」という思いも強く残りました。それがいったい何なのか、自分でも説明できない。今思うと檜の枝に降り積もっていた遺灰、あれは故郷へ帰りたくとも帰れない人が、あそこに引っかかっていたんじゃないか、そんな風にも思えてくるんですね。

──その後、菊池事件や黒髪小学校事件といった事件が起こりましたが、その頃、監督はいくつぐらいだったのでしょう。

のちに映画「あつい壁(*1)」で採り上げることになる黒髪小学校事件(*2)が起きたのは1954年、私が高校2年のときです。菊池事件(*3)はその3年前ですから、中学2年生のときですね。

*1 1954年、熊本県の黒髪小学校で起きた事件を題材とした映画。中山監督にとっての劇映画・初監督作品。1969年制作、1970年公開。当時は東大紛争など、学生運動が活発な時期でもあった。
*2 菊池恵楓園入所者の子どもたち(ハンセン病に感染していないことから、未感染児童などと呼ばれた)を地元の黒髪小学校へ通学させることを巡り、大規模な反対運動が発生。子どもたちが暮らす寮の名前から「龍田寮事件」とも呼ばれる。
*3 1951年8月、熊本県菊池郡で発生したダイナマイト投げ込みに端を発する事件。容疑者とされた人物はハンセン病の診断を受け、菊池恵楓園へ入所するよう勧告を受けていた。この人物は1952年、脱走中に起きた殺人事件の犯人として再逮捕され、1957年に死刑宣告。当時から冤罪を主張する声が多く、大規模な支援団体も組織されたが、1962年に死刑が執行された。

──その頃、すでに中山少年の夢は映画監督だったんでしょうか。

それが最初は医者になろうと思っていたんです。恵楓園の近くに住んでいる友達から、恵楓園の医者は土足のままゴザを敷いて入所者の部屋に入ってくる、白衣にマスクをして、目だけしか見えないような格好でやってくると聞いたんですね。そのとき、自分はそんなことはしない医者になろう、素手で診察したら患者さんは嬉しいだろうな、と思った。子どもなりの正義感です。

白衣にマスクをつけた医者が、手術用の手袋をはめたまま注射をする。そんな光景が頭の中に浮かびました。あとで調べてみると、園内のお医者さんが素手で注射をしている写真などもあったんですが、当時は、そういったことがまことしやかに語られる時代でもあったんですね。

戦中戦後の食糧難の時期、療養所の人たちは衣類と交換で近所の農家から食糧を分けてもらっていました。そういったことが続くと、一種の親戚づきあいのような関係ができてきて、まわりの農家の人たちも「小学校上がるくらいの年になれば、うつる者はほとんどいない」「肺病(結核)よりうつらん」ということを知っていくんですね。もちろん医学とか論理で理解しているわけじゃありません。日々の交流から、うつらないということを経験で知っていくわけです。

予防法というものが、ハンセン病に対する偏見、差別をいかに助長したかということですね。そうした事情がなければ、入所者と外部の人たちの交流というのは、もっとあったんじゃないかと思います。逆に言うと、「らい予防法」という法律の存在が、それだけ大きかったということです。

医学を志す道は、大学へ行って挫折するわけですが、医学の道でできなかったことを、映画でやってやろうなんて考えたことは、まったくありません。それはそれ、これはこれ。まったく別のものだと思ってました。昔から「なぜハンセン病の映画を撮ったんですか?」と、ことあるごとに訊かれるんですが、そんなこと、一口では説明できませんよ。どうしても説明しなければいけないときは、「それは私がたまたま合志に生まれたからで、それ以上でもそれ以下でもありません」、そう答えることにしています。


(映画「あつい壁(1970年)」の撮影風景。 写真提供:中山節夫監督

誰もいない家を出て遊びに行く。
そんな子ども時代が自分を象った

私の父親は職業軍人で、私が2歳のときに日中戦争で戦死してしまったし、母親は教師をやっていて、父が戦死した翌年から2年間、師範学校で寮生活をしていました。まったく家には帰ってこないわけです。その間、祖父母に育てられたんですが、その祖父母も私が小学校を卒業しないうちに亡くなってしまうんですね。

ただいまって、家に帰っても誰もいない。しかも農村の家っていうのは、これはもう本当に真っ暗なんですね。戸口を開けておかないと、家のなかが見えないくらいで、破れた壁から一筋の光がすーっと差し込んできたりしようものなら、これはもう孤独の舞台設定として完璧なんです(笑)。

仕方がないから、鞄をぽーんと放り投げて遊びに行く。あちこち遠くまで行くんですね。母は帰ってきても私が家にいないものだから、遊びにばかり行って、と怒るわけです。学校の先生だから「誰もいなくて静かなんだから、勉強でもすればいい」って言うんだな。でも子どもは、あんな暗い家で一人っきりで勉強なんてしてられないですよ。そんなこんなで、非常に社交的な性格になったわけです。

そういう生まれ育ちが、今の自分に大きく影響したことは間違いないですね。よく「三つ子の魂百まで」と言いますけど、3歳まではどうかと思うけれど、小学校入るくらいまでの育ち方が、人の一生を決めてしまうという面はあるんじゃないでしょうか。多磨全生園や恵楓園に行くと、妙に落ち着くっていうのも、そういう面が少なからず影響していると思うんですね。

──映画はいつくらいから観に行っていたんですか。

高校は行くには行ったんですが、入学してしばらくして「勉強はもうやめた!」 って自分で決めてしまったんですね。それで映画ばかり観ていました。当時、町に映画館がふたつあって、地方の三番館だから、かかっている映画が3日に一度変わるんです。それで「映画はいいなあ」と思ってしまった。運の尽きです。

──大学の途中で医学の道は断念したとおっしゃっていましたが。

18歳で理系の大学へ行ったんですが、元々勉強も好きじゃないし、医者になるという子ども時代の夢は早々に諦めることにしました。それで「どうせやるなら、好きなことをやろう」ということで、映画界入りを目指したわけです。

多摩美術大学付属芸術学園映画科(現・多摩美術大学。以下、多摩美)へ行くことになったんですが、当時、東京で映画やってる連中のなかには「音楽はベートーベンに始まり、ベートーベンに終わるのだ」なんてことを涼しい顔して言うやつがいたんです。こっちは九州から出てきたばかりですから、カルチャーショックを受けるわけですね。こんな言葉を吐ける都会のやつにはとても敵わない、どうしたら太刀打ちできるだろうかと、必死で考えました。

東京には農村問題、部落問題、ハンセン病問題、この3つについて知っている人が、ほとんどいないことに気づいたんですね。私は、どれも子どもの頃からよく知っていましたから、これが自分の強みになるかもしれないと思いました。といっても単に知っている、というだけの話で、理解していたわけじゃありませんでしたが──。そんなこんなで20歳から21歳くらいにかけて、「あつい壁」の最初の脚本を書いたわけです。

──初稿はペラ(200字詰め原稿用紙)で700枚だったそうですが、これは途方もない分量ですね。

書き上げたときは、おれは天才だと思いましたよ(笑)。もちろん最初は脚本の体なんか、なしていません。でも、読んだ先生たちがびっくりするんですね。「今の日本に、こんなところがあるのか」と。「こんなもの書いていないで、客が入りそうなアクション映画とかチャンバラ映画の脚本でも書け」と言う先生もいましたが、私はそういうのは東京の人が書けばいい、自分は東京の人が書けないものを書くんだって思っていました。

ペラ700枚、読む方も大変だったと思いますが、ともあれ先生がほめてくれた。それで「おれ、この道でやっていけるかな」って思って、そこからはもう自己暗示みたいなもんです。そうでも思わなかったら、やれなかったでしょう。映画を生業とすることに、知人友人、親戚、会う人みんなから反対されましたからね。「ああいう世界で生きていけるのは特別な人なんだ」「お前みたいな人間がやっていけるはずがない」と、諭されるわけです。私も意地を張って、そう言われれば言われるほど、ますます映画で食っていこうって思ってしまうわけですね。

──それで多摩美を3年で卒業して、日活に入るわけですか。

そういうことです。

〈後編へつづく〉

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