僕のなかの「全生園物語」(14)

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僕のなかの「全生園物語」
亀井義展

忘れじのじいちゃん、ばあちゃんたち

 1986年、園内では、1935年に建立された納骨堂が入園者の寄付金により再建された。  ──2021年現在の納骨堂を訪れると、入口右手に「全生者之墓」と記された墓碑が立ち、左手には「いのちとこころの人権の森宣言」碑がある。

 納骨堂へ向かう道を歩き「尊厳回復の碑」に手をあわせ、碑の裏にまわると「胎児標本慰霊のことば」が記されている。 そして、この春には新緑の木々たちに囲まれた納骨堂が僕を迎えてくれ…… この地に生きた方たちと大好きなじいちゃん、ばあちゃんの気配を感じることができるのだ──。

 その年の2月から、僕は第3東センターで働き始めた。 第3東センターは軽不自由・夫婦舎で、第1センターとは違い盲人の方も少なかったし、ご夫婦で助けあい暮らされていたので、生活介護よりも掃除や食事の配膳といった家事援助の仕事が主だった。

 園内中に声明文まで配布したくせに、僕はうまく気持ちを立て直すことができず、ふて腐れ気味の悶々もんもんとした日々を送っていた。 そんな様子を知ってか知らずか、チーばあちゃんは時々車イスを押してもらい僕に会いに来てくれたし、2月のバレンタインデーには「これ、ばあちゃんから……」と、チョコレートを届けに来てくれた。

 仕事に熱意が持てない分、僕はすっかり『5時からオトコ』(若い人には何のことかわからん)と化し、仕事が終わると麻雀荘に駆けつけた。はぐれた・・・・オトコたち(たまには、はぐれた・・・・オナゴとも)と真夜中まで麻雀を打ち続け、休日にはアチコチの競輪場に通った(当時の3東センターの皆さん、ろくでなしのオトコでどうもスミマセンでした)。

 そんな数年間のうちに、ヤスさん、オーばあちゃん、マーじいちゃん、チーばあちゃん、みんな亡くなってしまった。ヤスさんとオーばあちゃんは、病棟でつらい日々を送り、何の手助けもできなかった。マーじいちゃんは、最期をかたわらで看とり、身体を拭いて送ることができた。僕と担当看護師さん、ふたりの見送りだった。

 チーばあちゃんも身体が弱くなり病棟で療養していたが、看とりも近くなった頃、僕は「タイの国への旅」を予定していた。 病棟を訪ね、「ばあちゃん、オレ旅行に行って来てもいいかい?」と聞くと、「カメちゃん、行っておいで。ばあちゃん、待ってるから……」と言ってくれた。旅から帰り、僕はすぐにばあちゃんに会いに行き、 「ばあちゃん、ただいま! 帰ったよ」と声をかけると、小さな声で、「おかえり、カメちゃん……」と言ってくれ、その日の夜にチーばあちゃんは息を引きとった。まるで僕の帰りを待っててくれたようで、涙が止まらなかった。

 第3東センターで数年働いた後、僕は特重不自由舎・新センターに異動となり、6年あまり働くことになった。新センターは、生活の場としては一番不自由度が高く、盲人の方がほとんどで義足や車イス移動の方も多かった。

 新センターでの仕事は、第1センターと同じようにお風呂や暮らしのほとんど全てに関わるもので、僕はまた思う存分に働き、不自由な新センターの皆さんと親しくつきあい、関わることができた。 残念ながら、その6年間には生活日記を記しておらず(相変わらず遊びの方も忙しくて……)、親しくしてもらった何人かの方とのエピソードを愉しく、切なく思い出しながらつづってみる。

 ヤスばあちゃんは、肝っ玉ばあちゃん。目が不自由で、片脚が膝下からなかった。 その頃はまだ、入浴介助に「同性介助」という考え方はなく、浴室は男性スタッフが、脱衣室は女性スタッフが介助をしていた。 ヤスさんは洗身の時、後遺症でゲンコツ・・・・のようになった片方のコブシにタオルを巻きつけて身体を洗い、もう一方のゲンコツ・・・・は自分のおまた・・・を隠すようにしていた。不自由な身体で高齢になっても女性としての恥じらい、たしなみをちゃんと持たれていた。 そんなヤスさんの脇の下を僕はときどきくすぐり・・・・、ヤスさんから 「コラッ〜!!」と怒られた(今ならひどいセクハラや〜)。

 アキさんは、後遺症で無いはずの足先神経痛の痛みに毎晩のように耐えていた。当直医師がブロック注射に来るまでのあいだ、あまりの痛がりに僕はアキさんを抱きしめていたが、時にアキさんは「アンタのこの肩にかじりついて我慢してもいい?」と言い、僕も肩の痛みに一緒に耐えていた。

 ナベさんはかつて船乗りだった。片方の腕に白黒の錨〈いかり〉の入墨〈いれずみ〉がってあり、「ナベさん、何で白黒なんや?」と尋ねると、「彫るのがあんまり痛いから、途中で止めたからや……」と言われ、一緒に笑った。

 ハンセン病資料館の企画展イベントでもお話したように、新センターでの「読書会」「コーラス会」は愉しかったなぁ……。

 目も耳も不自由なお年寄りたちが、僕の代読する時代小説やらを耳をそばだて懸命に聞いてくれたし、懐かしい童謡や初めての歌にも皆で一緒に挑戦した。
 コメちゃん、まさこちゃんは民謡も上手くて声が通るし、こぶし・・・もできるので、皆んなを引っ張ってくれた。
 つるさんは、後遺症でれてしまった下唇を手で押さえながら歌われていたんだョ。

「マイブルーヘブン 私の青空」

♪夕暮れに あおぎ見る
 輝く 青空
 日が暮れて たどるは
 我が家の 細道
 狭いながらも楽しい我が家
 愛の火影のさすところ
 恋しい 家こそ
 私の 青空♪

亀井義展(かめい・よしひろ)
学生時代にフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)主催の韓国ハンセン病快復者定着村・労働キャンプ参加。その後仙台の本屋で『倶会一処 患者が綴る全生園の70年』を手にし、当時の多磨全生園入園者自治会会長・松本馨(まつもと・かおる)氏に手紙を書く。それが縁となり1981年秋より多磨全生園で盲人会、入園者の生活介護の仕事に従事。1998年に退職後、精神保健の作業所、グループホームなどで働く。2017年、友人の紹介で救世軍自省館(清瀬市)で働くことになり、およそ20年ぶりに全生園に通うようになった。

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