僕のなかの「全生園物語」
亀井義展
『鈍行列車』
第1センターで働き、愉快で優しく、そして哀しいじいちゃん、ばあちゃんたちと一緒だった日々の間に、僕の暮らしにもいくつかの出来事があった。
結婚後、しばらくしてから僕たちは小さな裏庭のある住まいに移り、それを機に念願だったワンコを飼うことにしたのだ。ふたりとも大の犬好きだった。知り合いを通して、愛らしいメスの子犬をもらってきた。付けた名は「ハナ」。
──私の名前は「はな」、咲いた咲いたの「はな」。簡単でしょ──
映画「天城越え」で、娼婦役の田中裕子が少年に話しかけるときの台詞だ。
僕は親兄弟から引き離すことになってしまったハナを、1週間抱いて一緒に寝起きした。
わが家にハナが来てしばらく後には、捨てられて逃げ隠れていたオスの子犬「クマ」も家族の一員になった。こちらは真っ黒で熊の子みたいだったからクマと名付けた。
ハナとクマはその後、腰の落ち着かない風来坊の飼い主とともに、20年あまりもあちこちを転々とし、僕たちの家族として暮らした。
今もクルマに積んだままになっているハナとクマの首輪
もうひとつは、東京にやってきてから全生園での仕事や、あたらしい暮らしに精一杯で、数年間、心の引き出しに蔵ってあった親友、今泉のことだった。
今泉の生きた軌跡と、一緒だった日々を僅かでも込めた本をつくること。それを彼の仲間たちと、ご家族に届けること。これは自分のやるべき仕事なんだと心に決めていた。
僕は、ようやく彼の書き残したものと、お母さんが看病のかたわら記していた日記をまとめる作業に取りかかり、『鈍行列車』という名の小さな本をつくることができた。
半端に彷徨くばかりの日々から飛び出し、全生園に向かう気持ちを決めてくれたのは、重い病気とつらい治療に向き合い、葛藤しながら生きる今泉の姿だった。
『鈍行列車』今泉の遺稿(*)より
*彼が所属していたサークル『入院児の教育を考える会・ありんこ』と『障がい児・者と共に歩む会・つくしんぼ』の雑記帳に書き記したもの
8月3日(1978年)
今日から東北線に新型通勤電車が走るというので、もの好きにもそれに乗るだけの目的で岩沼まで行ってきました。
それは、仙台発13時29分発の白石行きで、白石まで行くとお金がかかるので、(まあ、岩沼までにしておこう。時間が余ったら竹駒神社にでも寄ろう……)と思って行ったのです。
やはり新しい車両はいいですね。あずき色の車両は光っていたし、車内はきれいでまだペンキの匂いがするようでした。ドアは両開きで、ラッシュ時でも大勢入れるようだったし、面白いことに運転席の後ろにのぞき窓があって、運転している様子を見ることができるのです。
ただ残念なことに冷房車ではなく扇風機で、「せっかく新しく作ったのなら、冷房をつけてくれればよいのに……」
と、一緒に乗ったおばさんが言ってました。
4月15日(1979年)
鉄道に補助機関車というものがあります。
勾配がきつい時は、1台の機関車だけでは坂を登りきれないので、客車や貨物車後ろにもう1台か2台機関車をつけるのです。日本では碓氷〈うすい〉峠(信越線)や赤石峠(奥羽線)が有名です。
何故こんなことを書いたのかというと、学生が「社会運動」に参加するとしたら、この「補助機関車」のような役割を果たさなければならないのではないか、と思うのです。
2月2日(1980年)
雪がコンコン降る
人間は
その下で暮らしているのです(*)
*山里の厳しい暮らしを綴った『山びこ学校』の冒頭の詩「雪」より
こんな詩があった。
雪景色は美しいけれど、それはやはり雪の少ない国の人間の感覚かもしれない。雪の奥深い土地では、それどころではないのだろう。
それでも雪景色は美しいと思う。
5月14日(1980年)
少し古い話になります。
5月5日に名古屋から仙台に戻ってきた時、上野〜仙台間鈍行列車の乗り継ぎで来たのですが、黒磯から乗ってきた列車での話。
後ろの席で年配のおじさんがしきりに、
「鈍行列車はよい。鈍行列車はよい……」
と言うのです。
その列車、黒磯から2つめの黒田原で通過列車の待ち合わせのために12分停車、さらに3つのめの駅で18分停車というような列車で、連れのおばさんが「停まってばかりいるじゃないの」と不満そうでしたが、おじさんは「それだからいいんだよ」。
鈍行列車でひと駅ひと駅停まっていく。
その駅々を眺めると、ひとつひとつの駅に個性というか、顔というものがあるのに気づく。
東北線でも、小さな駅には必ずといってよいほどホームに花壇があって、花が咲き乱れている。鏡石の駅ではみごとな鉢植えのチューリップがあって、改札に出た駅員さんが乗降客がなく手持ち無沙汰のためか、その花の世話をし出した、などという風景が長い停車の間に見られるのです。
「ああ、そうなのか」と思いました。
結局、特急列車とか新幹線は『目的地』へ着くことしか眼中にない。しかし、時には『目的地』へ着くことばかりでなく、途中の過程を大事にすることも大切なのでは……。
今までの日本人というのは目的に到達することばかり考えていたが、これからは過程を大事にすることが必要なのではないか。
そういった意味で、私は東北新幹線はあまり好きじゃないのです。
*この本の「序にかえて」の冒頭に、僕はこんな一文を書いた。
「おんぶしてってやろうか」
冗談半分に言ったこのひと言が、今泉が抱え、闘った病気、ガンと僕との付き合いの始まりだった。
大学での彼の居場所だった合研(合同研究室)で、「腰が痛い……」と座り込んでいた今泉は、僕の軽口に、
「本当にしてくれるか」
と、答えた。
一度として弱音を吐くのを聞いたことがない今泉のつらそうな姿に僕は驚き、ふたりが暮らしている男子寮までの道を、彼を背負って歩いていった。
もうすぐ今泉の命日がやってくる。
僕は先に逝った今泉の思いも少しはおんぶして、一緒に歩いて来れただろうか……。
お世話になった人たちや家族に不義理を重ね、ろくでなしの日々ばかりが多かったような気がする(皆さん、勘弁してくだされ〜)。
亀井義展(かめい・よしひろ)
学生時代にフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)主催の韓国ハンセン病快復者定着村・労働キャンプ参加。その後仙台の本屋で『倶会一処 患者が綴る全生園の70年』を手にし、当時の多磨全生園入園者自治会会長・松本馨(まつもと・かおる)氏に手紙を書く。それが縁となり1981年秋より多磨全生園で盲人会、入園者の生活介護の仕事に従事。1998年に退職後、精神保健の作業所、グループホームなどで働く。2017年、友人の紹介で救世軍自省館(清瀬市)で働くことになり、およそ20年ぶりに全生園に通うようになった。