僕のなかの「全生園物語」
亀井義展
市川さんの思い出
市川(昇=のぼる)さんは背丈も心も大きな人で、豪快によく笑い、お酒と煙草が好きで、年齢は親子以上に離れていたが、僕にとっては「一番上の兄貴」のような人だった。
盲人会テープライブラリーの仕事だけでなく、ハーモニカバンドの楽団員としても活躍し、短歌を詠み、カラオケも大好きだった。その大らかな人柄から、療友たちからの信望も篤く、友人も多かった。僕も市川さんとの縁がきっかけで、元世話係の天野(秋一)さんたち、慰廃園(*1)時代からの盟友、氷上さん(*2)、長いこと少年舎の寮父をされていた三木(義雄)さんなどと知り合うことができ、どの方にも大変お世話になった。
*1 慰廃園(いはいえん)は、かつて東京都目黒にあった私立のキリスト教系ハンセン病療養所。国立と比べると自由で文化活動なども盛んだったと言われる。太平洋戦争中の1942年に解散、入園者は多磨全生園への転入を余儀なくされた。慰廃園出身者には市川昇さん、氷上恵介さんなどがいた。
*2 氷上恵介(ひがみ・けいすけ)。1929年生まれ。慰廃園を経て1942年に全生園へ転入。山桜(全生園の機関誌、多磨の前身)をはじめとする機関誌に文学作品を投稿、日本文学界でも高い評価を得た。代表作「孤愁」「オリオンの哀しみ」は遺稿集『オリオンの哀しみ』に収められている。1943(昭和28)年から36年間にわたり、全生学園の教師も務めた。1989年、60歳没。
市川さんと親しくなるにつれ、仕事が終わると市川さんの部屋を訪ねるのが僕の日課になった。一緒に煙草を吸いながら、いろんな話をした。ときどきは園内にあるレストラン「なごみ」に出かけていって、市川さんはイカ納豆を食べながら好きなビールを飲み、下戸の僕はちょこっと飲んで、たらふく食べた。
ある日、頼まれていた故郷の電話帳を届けたところ、市川さんは、
「●●という名前があるか、探してみてくれ」
と言い、電話帳をめくっていくと、名前が見つかった。
市川さんは感慨深げに、
「そうか……それはオレの兄貴なんだ」と呟いた。
連絡を取るなら手伝うけど、と訊くと「少し考えてみる……」という答えだったが、後日、お兄さんと電話で話したこと、その後しばらくしてお兄さんが故郷から面会に来られ、数十年ぶりに会ったことを聞いた。ふたりの胸の内は、僕の思い及ぶところではないけれど、兄弟再会のきっかけになれたことをうれしく思った。のちに僕は氷上恵介さんの遺稿集『オリオンの哀しみ』を読み、市川さんには同じ病気を患ったもうひとりのお兄さんがいて、兄弟一緒に慰廃園で暮らしていたが、若くして亡くなられたことを知った。
全生園に勤めだしてから数年後の夏、僕は学生時代から付きあっていたゆかりと結婚することにした。そこで全生園の親しい人たちと互いの家族、仲間たちに集まってもらい、小さな「結婚の会」をしようと計画したが、園の人たちは僕らの家族や友人が来ると聞いて、
「自分たちは、そういう華やかな場には行けない……」と、なかなか色よい返事をもらえなかった。ところが何度か頼んでいるうちに市川さんが、
「亀井さんがそう言うなら、行かせてもらおうか」と承諾してくれ、他の人たちも「市川さんが行くのなら、私たちも参加させてもらうョ」と、来てもらえることになった。当日は市川さんと荻さん(市川さんの友人でハーモニカバンドの楽団員)がハーモニカを、ゆかりがピアノを演奏して、皆で「夏は来ぬ」を歌った。
♪ 卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ ♪
秋津教会に通う邦子さんたちは賛美歌を歌ってくれた。歌のあと邦子さんは、
「私は人生のなかでこうした晴れやかな場所に来ることはないと思っていました。うれしい思い出になります」
ということばを贈ってくれた。
邦子さんとは僕が初めて全生園を訪ねたときに知り合った。宿舎で一緒だった僕より少し年上の神学生2人(たしか好善社から研修に来ていた)に「うまいカレーライス食べに行くか!」と、連れて行ってもらったのが、一般舎で暮らす邦子さんの部屋だったのだ。邦子さんのカレーはホントにうまくて、僕は何杯もおかわりして、腹一杯ごちそうになった。
神学生2人は結構オモロイ、話のわかる男たちで、よく一緒に出歩いた。仕事が終わってから3人で池袋まで出かけ、鰻の店で飲み食いしたあと、その頃評判になっていた「ノーパン喫茶」なるものに行ったこともある。初めて来たことであるし……と、僕は女の子のミニスカートのあたりをチラ見していたが、スカートの下がどうなっているかは、よくわからなかった。
邦子さんとは、以来亡くなるまでずっと、ゆかりも一緒に家族のように付きあってもらった。ああ、それなのに、それなのに、僕自身のたくさんの不心得と不始末から、今では(元)奥さんとは別々の暮らしをすることになってしまった。
いつかどこかで市川さん、邦子さんたちと再会することができたなら、心から詫びたいと思っている。
亀井義展(かめい・よしひろ)
学生時代にフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)主催の韓国ハンセン病快復者定着村・労働キャンプ参加。その後仙台の本屋で『倶会一処 患者が綴る全生園の70年』を手にし、当時の多磨全生園入園者自治会会長・松本馨(まつもと・かおる)氏に手紙を書く。それが縁となり1981年秋より多磨全生園で盲人会、入園者の生活介護の仕事に従事。1998年に退職後、精神保健の作業所、グループホームなどで働く。2017年、友人の紹介で救世軍自省館(清瀬市)で働くことになり、およそ20年ぶりに全生園に通うようになった。