僕のなかの「全生園物語」(6)

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僕のなかの「全生園物語」
亀井義展

友との別れ── そして全生園へ

 少しでも闘病の助けになれるよう、僕は今泉が入院する大学病院へ毎日のように通っていた。その途中、ふと立ち寄った不思議な本屋さん──仲間内では警察当局にも睨まれているらしい、と噂されていた──で、『倶会一処くえいっしょ(*1)』という本を見つけ、当時、多磨全生園で入園者自治会・会長を務めていた、松本馨(*2)さんの名を知った。

*1 『倶会一処 患者が綴る全生園の七十年』多磨全生園患者自治会編 一光社 1979年。執筆は光岡良二、氷上恵介、盾木弘、大竹章、佐川修各氏による。全生園の歴史を患者がみずから綴るという点に大きな意義があった。
*2 松本馨(まつもと・かおる)氏。多磨全生園で寮父を務め、この頃薫陶を受けた子どものうちに谺雄二氏、山下道輔氏などがいた。失明後も活発に活動を続け、多磨全生園自治会再建、『全患協運動史)』『倶会一処』などの編集指導など業績は多岐にわたる。1974年から1987年までの13年間、全生園自治会長職を務めた。2005年没。

 ──自分と同時代を生きておられる快復者の方たちがいるんだ。
    おれは会いに行く──

 そう思った僕は、すぐに松本さんに宛てて「そちらで働かせてほしい」と手紙を書いた。今から思うと、礼というものをまったく知らない、無鉄砲きわまる若造の手紙だったのだが、松本さんからは「とにかく一度、こちらに来てみなさい」という返事が届いた。
 その頃、今泉は病状も落ち着き、仮退院していた。大学にもときどき顔を出し、友人たちとも会えるようになったが、数ヶ月後には病気が再発し、またつらい治療と闘病が始まった。
 自分の病気がガン・・であり、転移もあることを知らされていなかった(ご両親の希望だった)今泉は、抗がん剤の副作用と、悪くなるばかりの病状のなかで、「おれは実験材料だョ……」と、独り言のようにつぶやいた。
 哀しい言葉だった。

 1981年2月、今泉が逝った。
 仙台でずっと看病をつづけていた母親が、何度か「愛知の家へ帰ろうよ」と勧めても、今泉は頑として聞き入れず、最期まで仲間たちのいる仙台の地に留まり、そして亡くなった。「自分のこの先の人生、その半分を今泉に渡してもいいから一緒に生きていきたい……」という僕の願いが叶うことはなかった。
 告別式では、親しかった友人や後輩たちが大勢集まり、今泉が好きだった「椰子やしの実」を歌って、彼を送った。

♪名も知らぬ 遠き島より
 流れ寄る 椰子の実ひとつ

 ふるさとの 岸を離れて
 なれはそも 波に幾月♪

 今泉が亡くなったあと、僕は初めて東京にある全生園を訪れ、松本馨さんの取り計らいにより一ヶ月ほど、不自由舎センターの見習い介護員として働いた。
 その年の秋、僕は5年半も居座り続けた大学を中退し、青春時代を過ごした男子寮や後輩たちにも別れを告げ、仙台から夜行列車で東京へと向かった。

東海林太郎_「椰子の実」 – 1936 on 78rpm

亀井義展(かめい・よしひろ)
学生時代にフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)主催の韓国ハンセン病快復者定着村・労働キャンプ参加。その後仙台の本屋で『倶会一処 患者が綴る全生園の70年』を手にし、当時の多磨全生園入園者自治会会長・松本馨(まつもと・かおる)氏に手紙を書く。それが縁となり1981年秋より多磨全生園で盲人会、入園者の生活介護の仕事に従事。1998年に退職後、精神保健の作業所、グループホームなどで働く。2017年、友人の紹介で救世軍自省館(清瀬市)で働くことになり、およそ20年ぶりに全生園に通うようになった。

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