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僕のなかの「全生園物語」(14)

僕のなかの「全生園物語」 亀井義展 忘れじのじいちゃん、ばあちゃんたち  1986年、園内では、1935年に建立された納骨堂が入園者の寄付金により再建された。  ──2021年現在の納骨堂を訪れると、入口右手に「全生者之墓」と記された墓碑が...
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僕のなかの「全生園物語」(13)

僕のなかの「全生園物語」 亀井義展 『鈍行列車』  第1センターで働き、愉快で優しく、そして哀しいじいちゃん、ばあちゃんたちと一緒だった日々の間に、僕の暮らしにもいくつかの出来事があった。  結婚後、しばらくしてから僕たちは小さな裏庭のある...
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僕のなかの「全生園物語」(12)

僕のなかの「全生園物語」 亀井義展 「アイ・シャル・ビー・リリースト」 「声明文」について、園内では共感の声とともに批判も聞こえてきた。僕は、この先自分の身に何が起きようと、受けて立つつもりでいた。 第1センターで働けるのも残り数日となった...
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僕のなかの「全生園物語」(11)

僕のなかの「全生園物語」 亀井義展 「ひとりの声明として」 1985年、亀井義展28歳の秋は、愉快なじいちゃんがいて、(奥さんがいるのに)愛するばあちゃんたちがいて、至福の2ヵ月だった。 その後も同世代の若い仲間たちと、少しずつ不自由舎セン...
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僕のなかの「全生園物語」(10)

僕のなかの「全生園物語」 亀井義展 我が青春の「さがみ奮闘日記」(2) 11月8日 チーばあちゃんと、お風呂あがりの会話。 「お風呂で大変なことを覚えてきたョ。おっぱいのことをペチャパイって言うんだってねェ……」 「おっぱいのことをペチャパ...
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僕のなかの「全生園物語」(9)

僕のなかの「全生園物語」 亀井義展 愛すべきおじい、おばあとの出逢い 盲人会で2年半ほど務めたあと、僕は園内の不自由舎・第1センターへ異動となり、初めて生活介護員として働くことになった。 その頃の不自由舎は、新センター(特重)、第1センター...
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僕のなかの「全生園物語」(8)

僕のなかの「全生園物語」 亀井義展 市川さんの思い出 市川(昇=のぼる)さんは背丈も心も大きな人で、豪快によく笑い、お酒と煙草が好きで、年齢は親子以上に離れていたが、僕にとっては「一番上の兄貴」のような人だった。 盲人会テープライブラリーの...
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僕のなかの「全生園物語」(7)

僕のなかの「全生園物語」 亀井義展 全生園での新生活はじまる 1981年秋、僕は仙台から東京の東村山市にある「国立療養所多磨全生園」にやってきた。園内は一度や二度足を踏み入れたくらいでは迷子になるほどの広さがあり、まるでひとつの村のようだっ...
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僕のなかの「全生園物語」(6)

僕のなかの「全生園物語」 亀井義展 友との別れ── そして全生園へ  少しでも闘病の助けになれるよう、僕は今泉が入院する大学病院へ毎日のように通っていた。その途中、ふと立ち寄った不思議な本屋さん──仲間内では警察当局にも睨まれているらしい、...
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僕のなかの「全生園物語」(5)

僕のなかの「全生園物語」 亀井義展 初めての異国で知ったこと、考えたこと  1979年夏、僕は韓国にある「ハンセン病快復者定着村」にいた。  その頃、僕は仙台にある大学の学生寮で暮らしていたが、じつのところ、ひどい不良学生だった。大学の講義...