Profile
太田 明(おおた・あきら)さん……1943(昭和18)年、熊本生まれ。8歳でハンセン病を発症し、国立療養所菊池恵楓園へ入所。1959年、長島愛生園内にある新良田教室に5期生として入学、卒業後に東京の大学へ進学する。卒業後に就職、社会復帰したが3年後に再発、1972年に菊池恵楓園に再入所した。現在は菊池恵楓園入所者自治会・副会長を務め、啓発活動などにも積極的に関わっている。
私は資料館(高松宮記念ハンセン病資料館)ができた当時から、資料館の資料専門委員として、かれこれ30年くらい関わっとるわけです。そういうこともあって資料館問題については、ひとかどならぬ関心を持って注目しています。早く正常化してほしいと願っているんですがね。
なぜ稲葉さんを、あそこまで追い詰めて孤立化させなければならなかったのか。いろいろ考えてみたんですが、ひとつのきっかけは、やはり2018年に学芸部を廃止して事業部制を採用したことではなかったかと思います。展示重視から啓発事業重視へ、資料館の方向性が変わったわけですね。管理運営、マネージメントを強化するために、そういうことになったのかもしれませんが、結果的には館長はじめ、上司の指導能力および管理能力に問題があったということになるんじゃないでしょうか。
稲葉さんが同僚からあそこまで誹謗中傷され、両者の言い分があまりにもかけ離れているわけですね。今資料館にいる学芸員の方も知っている人ばかりですから、学芸員があのような誹謗中傷をしていることに関しては、我々としても心が痛いわけです。学芸員の間であれほどの軋轢があったということ自体に、非常に大きなショックを感じているんですよ。
──今回の不当解雇関しては、資料館の受託、雇用期間の短さといった問題も絡んでいるように思いますが、太田さんはどうお考えですか。
雇用期間の問題は、たしかに大きな要素のひとつですね。全療協としては厚労省に対して継続的雇用をお願いしてきましたが、明文化はされていなかった。業務委託の契約期間、職員の雇用契約、いずれも1年ごとの更新で、これも問題です。
こういった問題を全療協としても、もう少し整理をして、厚労省と交渉できればよかったと思います。資料館運営委員会、資料館運営企画検討会、こういった委員会もありますけど、実態は型式的なもので、結局最終的な意思決定機関ではない。では最終的な意思決定機関はどこなんだ、ということです。
今度の事件は、ハンセン病資料館が前々から抱えていた問題──運営に関するきちんとした規約がないとか、ガバナンスやマネージメントが不十分であるとか──そういったものが表面化してきた面もあると思っています。前向きにとらえれば、資料館ができて27年、そろそろ抜本的な組織の見直しをするよい機会であると言えるのかもしれません。
全療協としても、この問題をもう少し真剣に考えるべきだと思います。たとえば全療協の有識者委員会で話し合われた内容が、全療協の意見として提出されていますが、これは少し違うだろうと思うんですね。有識者会議だけでなく、全療協の支部長会議でも、何度も議論しなければいけないですよ。有識者委員会といっても、ハンセン病のこれまでの運動、資料館ができた経緯などについては、あまりご存知ない方も多いんですね。そこがハンセン病問題の難しいところですけれども、なかなか複雑な面があります。
──国賠訴訟の勝訴によりハンセン病基本法ができた。その結果として国立ハンセン病資料館ができたのだ、と主張する声もあるようですが。
勝訴判決を機に法人から国立に移管されたことは事実です。しかし資料館のそもそもの成り立ちは、財団法人藤楓協会の40周年記念事業として大谷先生(*)が発案された。これが発端になっているわけです。らい予防法を廃止するために、まず資料館を自分たちの手でつくろうということでスタートしたんです。我々が資料も集め、カネも集め、協力しましょうということで実行委員会を組織したわけですから。
* 大谷藤郎(おおたに・ふじお)氏。1924年生まれ。1959年に厚生省入省、1972年に国立ハンセン病療養所課長に就任。1983年の退官後は財団法人藤楓協会理事長となり、1993年の高松宮記念ハンセン病資料館設立において中心的役割を果たした。らい予防法廃止運動にも積極的に関わり、法廷における大谷証言は国賠訴訟における原告勝訴の大きな後押しとなった。『らい予防法廃止の歴史──愛は打ち克ち壁崩れ陥ちぬ(勁草書房)』など著書多数。2010年没。
高松宮記念ハンセン病資料館というのは、らい予防法を廃止するための資料館だったんですよ。あの資料館があったおかげで国賠訴訟にも勝つことができたし、らい予防法も廃止された。私はそう思っています。
あの資料館を見学に来たことで、国会議員の先生をはじめ、いろいろな方の理解、認識が深まったと思います。当時の厚生大臣も「資料館を見て、考えが変わった」と言ってくださっているわけです。大谷先生の発言や著書だけじゃなく、資料館そのものも、こうしたハンセン病問題の解決に大きく貢献しているんですよ。
資料館という場所がなかったら国賠訴訟も、わずか3年で勝訴することはできなかったと思います。こういった訴訟は10年くらいかかるのが普通ですから、そういった意味でも資料館の果たした役割というのは大きかったですよ。資料館には人権啓発を推進するだけでなく、資料を保存する場所としても重要な役割を果たしてもらいたいと思っています。
国立ハンセン病資料館に収蔵されている恵楓園の資料に関しては、高松宮記念ハンセン病資料館が開館するときに私が送ったと記憶しています。ただ、当時から菊池と長島(愛生園)は、資料の提出に協力的でないと批判されました(笑)。それは長島にしろ、菊池にしろ、自前で資料館を作るという目標があったからなんですね。資料館ができたときのためにも、貴重な1級資料を東京に送ってしまうわけにはいかない。そういう思いがあったんです。
(増改築が進む社会交流会館 写真提供:太田 明氏)
今は各園に社会交流会館もできましたし、資料館問題が起きている今となっては、資料を全部東京に送らなくてよかったという面もあるんじゃないですか。菊池の社会交流会館に関しては、あたらしく増改築工事も進んでいます。多磨の国立ハンセン病資料館に負けないものにしようと頑張っていますよ。