Profile
志村 康(しむら・やすし)さん……1933(昭和8)年、佐賀県生まれ。14歳のときにハンセン病と診断され、熊本県にある国立ハンセン病療養所、菊池恵楓園へ入所する。1962年、29歳のときに菌陰性、1965年、32歳のときに社会復帰を果たす。後遺症治療のため1993年に再入所。自治会活動、啓発活動などにも積極的に関わっている。2014年より菊池恵楓園自治会・自治会長。
資料館問題への違和感。
館長の責任問題を問う
資料館に残っている職員が稲葉さんたちの悪口を言っているようだけれど、自分たちの仲間に対して、なんであのようなことを言えるのか。このことにまず違和感を感じます。菊池(恵楓園)と多磨(全生園)とは距離的にもかなり離れていて、実際どういった状況になっているのか、よくわからないところがありました。今回の不当解雇に関しては、少しずつ内容がわかってきた。そういう状態です。
受託団体が笹川保健財団になったときに採用試験をやって、2人を不採用にした。このことについては、財団にそんな権利があるのかという話です。受託団体が日本財団から笹川保健財団に移ったといっても、役員のなかにはふたつの財団を行ったり来たりしている者もおるわけで、これは別々の団体だと言われても、はいそうですかと納得するわけにはいきません。
しかも笹川保健財団というのは、資料館の運営経験など、まったくなかったわけです。そういった財団に受託先が替わる際に、採用試験がおこなわれて、2人だけが不採用になった。何をやっているんだという話でしょう。いわゆる資料館問題についても、これらは本来すべて館長が指導すべきことです。やるべき仕事ができていないのだから、一刻も早く館長を辞めさせて、責任能力のある人に替えるべきです。
成田館長は、ハンセン病資料館の運営企画検討委員会(以下、企画検討委員会)でハンセン病という呼び名ではなく「らい」という呼び名を復権させなければいけない、と述べたことがありました。私は、そんなことはあってはならないと猛烈な勢いで噛みつきましたが、この一連の発言は議事録には一切残っていませんでした。
──館長の発言自体、意図がよくわからないのですが、どのような主旨での発言だったのでしょうか。
成田館長は「らいというものがなんだかわからない若い者が多くなってきている。ハンセン病とらいが同じものである、ということを広く知らしめるべきだ」という意味のことを言ったんです。「らい」というのは差別用語です。そのことは本省(厚労省)も認めている。それを資料館の館長が認めないというのは、これは大問題でしょう。恵楓園としては、ハンセン病資料館の館長に辞めてもらうしかないと思ってます。資料館館長の任にあらずということです。
──企画検討委員会で、その発言は問題にならなかったんですか。
なにしろ議事録に記録が残ってないんだからね。大体、厚労省が開く企画検討委員会というのは、内容を討議する場ではなくて「一生懸命やってます」ということを確認するためにあるようです。型式的な場であって、討議する場になっていない。このことにも大きな問題があると思います。
菊池の自治会資料は地元の
熊本にあってこそ価値がある
国立ハンセン病資料館の下に菊池(恵楓園)の社会交流会館がある、組織体系としてはそういう形になってますから、我々がいなくなったときに、菊池の資料が全部多磨の国立ハンセン病資料館に引き上げられてしまう、そういった危険性もあると思っています。したがって、そういうことにならないよう、今から手を尽くしていかなかればならない。
(恵楓園自治会と大楠 写真提供:太田 明氏 以下同)
資料に関していうと、問い合わせ頻度が高いのは、やはり菊池事件(*1)関係の資料です。この資料は、以前は自治会に置いてあったんですが、このままにしておいては散逸する危険性があるということで、菊池の社会交流会館に管理をお願いしました。といっても、これはあくまでも我々自治会の資料で、交流会館に寄贈したわけではありません。
*1 1951年8月、熊本県菊池郡で発生したダイナマイト投げ込みに端を発する事件。容疑者とされた人物はハンセン病の診断を受け、菊池恵楓園へ入所するよう勧告を受けていた。この人物は1952年、恵楓園からの脱走中に起きた殺人事件の犯人として再逮捕され、1957年に死刑宣告。当時から冤罪を主張する声が多く、大規模な支援団体も組織されたが、1962年に死刑が執行された。
本妙寺の強制収容(*2)、映画「あつい壁(*3)」で広く知られるようになった黒髪小学校事件(*4)、菊池事件、黒川温泉事件(*5)、こうした一連の事件に関する資料も、やはり地元である菊池にあってこそ価値がある。そういうものだと思っています。東京にある国立ハンセン病資料館に吸い上げる、そんなことは将来的にもあってはならない。
*2 1940年、加藤清正を祀る熊本県・本妙寺で起きた、ハンセン病患者の強制収容事件(検挙数157名)。「本妙寺事件」とも呼ばれる。
*3 1954年、熊本県の黒髪小学校で起きた事件を題材とした映画。監督は、この作品がデビュー作となる中山節夫。1969年制作、1970年公開。
*4 菊池恵楓園入所者の子どもたち(ハンセン病に感染していないことから、未感染児童などと呼ばれた)を地元の黒髪小学校へ通学させることを巡り、大規模な反対運動が発生。子どもたちが暮らす寮の名前から「龍田寮事件」とも呼ばれる。
*5 2003年、黒川温泉で起きたハンセン病患者宿泊拒否事件。事件後、被害者である恵楓園入所者に対する誹謗中傷(電話、手紙、ファクスなど)が相次いだことでも知られる。
(園内に今も残るコンクリート製の隔離壁)
熊本に関する資料が東京に送られてしまったら、わざわざ東京まで見に行く人がいますか? これは絶対に地元に置いておかないといけないものだと思います。菊池恵楓園は全国でも最大規模の1700名を収容する療養所であったわけで、そこで暮らした人たちが、いったいどのようなことを考え、感じながら生活していたか。そういうことも伝えていかなきゃいけません。
しかし、社会交流会館については今のところ充分な予算配分もなく、学芸員の追加配置もないというのが現状です。各地の社会交流会館は手作りでやらざるを得ない状況にあります。菊池の場合も未整理の資料が膨大に残っていて、資料ケースに入ったままになっているものが1150箱もあるんですね。資料ケースの確認と分類の作業を学芸員と職員の一部がやっているけれども、まったく終わりが見えない。そういう状況です。
学芸部の復興、そして
資料館の運営指針整備を強く望む
従来の受託者だった日本科学技術振興財団(科技振)の方が、そういった意味では信頼性がありました。我々としては国立ハンセン病資料館の運営に日本財団が入ってくるなんてことは、考えてもみなかった。しかし受託者が替わることに対して、全療協は拒否権をもっていないんです。安倍さんが辞めたことで、少しはそのあたりも改善されるのかなとも思うけれど、自民党の政権が続きますから。
日本財団、笹川保健財団には自治会としても、直接的な援助もしてもらっていて、そのことには感謝をしていますが、資料館の運営に関しては、これはちょっとお門違いじゃないかという気がしています。私たちとしても全療協が中心となって厚労省に働きかけ、厚労省から受託団体を指導してもらうべきと考えています。
資料館の受託も1年ごとの入札で、ここにも問題があります。我々は雇用の安定を求めるという意味で、学芸員の雇用は長期にわたって保障してほしいという要求をずっとしてきました。無期転換ルール(*有期労働契約が5年を超えて反復更新された場合は、無期労働契約に転換されるルール)というのは、そもそも安倍内閣時代に決まった話(*2013年改正労働契約法)でしょう。たとえ単年度雇用であっても、地位保全をしていく義務があるわけです。
ハンセン病資料館の学芸員2人が今回不採用になり、その理由も開示されない。こういうことをやっていては、学芸員を募集しても、なかなかあたらしい人が来ないでしょう。いつ、どんな理由で解雇されるかわからないのでは、生活設計が成り立たないですから。第一、学芸員というのは人間であって、使い捨てのモノじゃない。大学院まで出たような人を理由も告げずに解雇してしまうなんて、そんな滅茶苦茶なことが日本社会のなかでできるとは思わないですし、労働基準法に則った形で運営をしていくことが必要だと思います。
(菊池恵楓園納骨堂)
資料館にとって、もっとも重要なのは現場で働く学芸員です。そのことを日本財団がわかっているか、ということでしょう。資料館運営をそんな形で恣意的にやられたら、あそこにある資料、全部なくなってしまうんじゃないでしょうか。もちろん、そんなことでは困るわけです。やはりハンセン病問題基本法(*ハンセン病問題の解決の促進に関する法律。2009年施行)とくに18条、これに基づいて運営をしっかりとやってもらわなきゃいけない。そこをはっきりさせないといけません。
それからもうひとつ。人権啓発を担うはずの国立ハンセン病資料館に、なぜ事業部が必要なのか。日本財団の運営になってから学芸部が廃止(*2018年)されてしまいましたが、やはり学芸部あっての資料館でしょう。その意味でも学芸部が必要ではないかと思います。
そのためにも明文化された運営指針をつくらないといけません。現在のハンセン病資料館にはそういったものがありませんから、率直に言えば資料館の体をなしていないとも言えるわけです。開館から27年が経ちましたが、これを機に、こうした基本部分も見直していく必要があるでしょう。そのことが資料館問題の解決、そして再発を防ぐことにつながっていくのだと思います。