稲葉上道氏インタビュー〈後編〉

インタビュー

Profile 稲葉 上道(いなば たかみち)
1972年、東京都生まれ。大学院研究室在籍時にハンセン病資料館が学芸員を募集していることを知り、2002年に同資料館初の学芸員として採用される。その後、学芸課長などを歴任。2016年初頭からパワハラ被害を受けるようになり、2018年、新設された職員1人のみの資料管理課に配属される(事実上の追放人事)。職場における恫喝、排除などが起きてきたことを受け、2019年9月に労働組合「国家公務員一般労働組合国立ハンセン病資料館分会」を立ち上げる。2020年3月、受託者が変わるタイミングで不採用となり、18年間勤務したハンセン病資料館を去ることとなった。現在は復職を求め、団体交渉、裁判などを通じて闘争中。

 

資料館の存在意義を書いた
修士論文。反応は三者三様

──先ほど、佐川さんの仕事は今ある資料館の姿勢を何があっても維持することだったと思う、という話がありましたが、どのような姿勢を維持しようとしていたのか、そのあたりをもう少し聞かせてもらえますか。

はっきりこうとは言われなかったので、そこは普段の仕事や会話から感じ取るしかないんですが、ハンセン病資料館は、佐川さんたち当事者の方々が、自分たちの生きてきた証を残したいと思って作ったものですし、「同じようなことは二度と繰り返してはならない」というメッセージを発信する場所でもあると思っています。そう考えると、このふたつは柱として、絶対に外してはいけないものでしょう。そこから変質しないようにやっていく、というのが僕ら学芸員の使命ですし、絶対に変えられない部分だとも思っています。

佐川さんとは「資料館って、こういうものだと思ってるんですが、これで合ってますか」みたいな会話はしたことがなかったんですが、じつはハンセン病資料館のことをテーマに修士論文を書きまして、その論文のコピーを佐川さんと大竹さん、それから山下さんにお渡ししたんですね。

論文のなかでも自分たちの生きてきた証を残すこと、ハンセン病政策と差別の歴史は繰り返してはならない、と強く訴えるという、2本の柱について書いているんですが、この内容がもし間違っていたら、「稲葉くん、これはちょっと違うよ」と3人のうち誰かが言ってくるだろうな、と思っていたんです。

ところが誰も何も言ってこない。大竹さんは全部読んで感想を言ってくれたんですが、概ね好意的で、2本柱の部分についても外れているとは言われませんでした。佐川さんは違っていると思っていたら言ってくる人ですが、違ってなかったら何も言わないタイプなので、そこはあえて確認しようとは思いませんでしたね。

山下さんからは後日「あの論文、違ってるよ」と言われて、「おっ」っと思ったんですが、なにかと思ったら「自治会図書室を増設したときは、東京都にお金出してもらったんだ」というんですね。事実関係が違っているという、山下さんらしい指摘だったんです。「他の部分はどうでしたか?」と訊いたんですが、「あとの部分はあれでいいと思うよ」と、軽い感じで言われました。

──稲葉さんの場合、大学院の研究室に声がかかったことで、ハンセン病資料館の学芸員になったわけですが、これを一生の仕事にしようと最初から思っていたのでしょうか。それとも佐川さんたちを知る過程で、途中からそのような思いが強くなってきたんですか。

ハンセン病資料館の学芸員になると決めたきに、可能なかぎり、一生やっていこうという思いはありました。というのも、この資料館で扱っているものって、どれも「回復者の人たちの人生」そのものなんです。そこに学芸員として関わっている。言ってしまえば、人の人生を利用して仕事をしているわけです。それで生計を立てているとなると、適当なところで切り上げます、というわけにはいかないだろう。最初から、そう思っていました。

もちろん回復者の方から直接「お前がやるべき仕事じゃないよ」と言われてしまったら、すいませんでした、と謝って辞めた方がいいだろうと思いますが、少なくとも自分の方から、たとえばもう飽きたから辞めますとか、他にもっと実入りのいい仕事が見つかったので、そっちに行きますとか、そういうことはしてはいけないと思っていました。

──そんなハンセン病資料館が変質を始めて、ついには稲葉さんを含む2名の学芸員が不当解雇されるにいたったわけですが、この「変質」は、どのあたりから起きてきたと思いますか。

社会啓発と呼んでいる活動の内容に関して、学芸員の間で方針が合わなくなってきたあたりからでしょうか。僕は当時学芸課長でしたが、ハンセン病資料館が対外的に社会啓発事業と銘打って情報発信する以上、まず大前提として、そこに関わっている学芸員が「この問題は、自分にとってどんな存在であるか」ということを、ひと言でもいいから説明すべきだと思っていたんです。それなしに偉そうな話をするのは、ちょっと違うんじゃないかと。

我々学芸員は、回復者の人生を扱って生計を立てている。しかも自分は当事者ではなく、差別をした一般社会の側にいる人間、もっと言えば加害者であるわけですね。その人間が、自分にも責任はあった、この問題についてはこう思っている、ということを語らずに一般の人たちに対して、あたかも当事者であるかのような立場から話をする。これは非常に危険なことだと思います。

ハンセン病の問題を知ることで自分たちの今の生活に、どんな学びがあるのか。どのような答えが正解かはわかりませんが「少なくとも自分はここに学びがあると思うから、こうした活動をしている。だから皆さんにも学んでほしい」という伝えかたをするべきじゃないかと、僕自身は思っています。啓発活動をするなら、1人の人間として──自分ごととして──考えを表明した上でやるべきです。

──自分も加害者(=ハンセン病差別を放置してきた一般社会)側の人間なのだという引け目のようなもの、それはある種の節度と言ってもいいと思いますが、そういうものがなくなっていくのは、非常にまずい気がしますね。

そう思います。

 

「他人の人生」を利用している。
その自覚と責任が学芸員を象っている

学芸員は博物館施設を使って、メッセージを発信することができる。これは特権的立場と言っていいと思います。たまたま学芸員という立場にいるから、博物館をメディアとして使うことができる。しかもハンセン病資料館の場合、自分の言いたいことを発信する際に使う手段というのは、回復者、つまり他人の人生であるわけです。このようなきわめて特殊な立ち位置にいることに自覚的でなかったとしたら、学芸員として仕事をしてはいけないのではないか。個人的にはそう思っています。

自分も回復者の人たちをある意味利用して、そこから学んで生きている。あなたたちもこの人たちから学ぶことが、きっとあるはずで、じつは僕ら学芸員とあなたたちが立っている場所というのは同じなんだ、こういった認識が前提になっていなければ、伝えたいことも伝わらないでしょう。

──そんな人権啓発をおこなう資料館でパワハラ、セクハラ、特定職員の排除といったことが起きてしまった。しかもそういった行為に加担する学芸員や職員もいるという。なぜこんなことになってしまったのでしょうか。

自分の生きかたの問題だと思っていないから、そういうことになっても疑問を感じないのではないでしょうか。どこか別のところ、安全地帯のようなところに自分たちがいて、そこからものを言っているような感覚に陥っているのかもしれません。非常に残念なことだと思います。

これは学芸員一般に言えることですが、博物館施設でなんらかの業績を上げて、その上で大学へ移りたいと望んでいる人も案外多いようです。現在のハンセン病資料館にもそのように考えている人がいるのかもしれません。そういった人たちとは、もともと目指すところが違っていたんでしょう。

──現在はハンセン病資料館に復職することを目的として団体交渉をしているわけですが、そこまで頑張ろうと思えるのは、なぜでしょう。

資料館が変な方向に進んでいくとわかっていながら、ただ傍観しているだけで済ませたくないから、ではないでしょうか。最初に勤めた地方の博物館に今でもいたとして、そこで職場から排除されたら、ここまで固執しただろうか、と考えたりもしたんですが、たぶんあまりこだわることなく、次へ移ろうと思ったんじゃないでしょうか。

そこが生計を立てるための仕事か、生き方の問題かの違いだと思います。佐川さんは資料館を守ろうとして、ずっと仕事をしてきた。それを横で見ていたからというのも、もちろんあります。あとは全国各地の療養所に行くと、やはり資料館に注目している、期待しているよ、と言ってくださる方がいまだに多いんですね。佐川さんと大竹さんが全国の療養所をまわって資料を託されてきた、そのときの思いというのは、たぶん今も続いているんだと思います。

──全国各地の療養所も高齢化が進んでいて、今後のことを早急に考えなければいけない時期に来ている。残された時間が少ないときに、こんなことをしてる場合じゃない、そう思っている人も多いのではないでしょうか。

本当にそう思います。もうひとつ問題だなと思うのは、この4年くらいの間に、厚労省の言う「ハンセン病資料館に期待すること」が、大きく変わってきていることです。じつは、この4年で資料館の啓発活動についてのみ、厚労省から方針が出るようになりました。それ以外の資料収集・保管、展示といったものについては、指示やコメントは何もありません。

社会啓発に関する方針が厚労省から出されるようになったことで、「厚労省の出してくる指針だけを守っていればいいんだ」と、みんなが思い始めてしまった。資料館が変質したきっかけは、ここにもあったのではないかと思います。指示に従っていればいいという誤解が始まってしまったわけです。

受託者の立場からすれば、厚労省が言っているとおりにやっているんだから、何も問題ないじゃないかということになりますが、ハンセン病資料館は社会啓発だけを目的に作られたわけではありません。そこには当事者たちが生きた証がなければならないし、同じようなことが二度と繰り返されてはならない、というメッセージもこもっていなければいけないんです。

 

佐川さんの思いを継いでいく。
決意から生まれる資料館への思い

──資料館運営という意味でいうと、2018年に佐川さんが亡くなったことも、大きな「変質」の原因になったのではないでしょうか。

長い間、ハンセン病資料館には明文化されたルールというものが存在していませんでした。それでも問題なくやってこられたのは、佐川さんという存在がルール代わりになっていたからなんですね。特定の個人がルールブックになると、大きな問題を招くことも多いですが、佐川さんの場合、資料館を私物化するようなことは一切なかった。非常に良識的なルールの下に運営されていたので、それで済んでいたんです。

ときどき資料館を私物化しようとする動きがあると、良識的なルールブック(佐川さん)が急に怒り出したりして、その動きを止めていた。

──佐川さんの良識だけに頼るのではなく、私物化する動きを止めるような仕組みを、組織としてつくっておくべきだったのかもしれないですね。

当時は気がつきませんでしたが、そこはやっておくべきだったと思います。そのような仕組みは、これからも作っておくべきものでしょう。

──スカイツリー観光の写真がありますが、これは誰が行こうと言い出したんですか。

僕が行こうと言いました。佐川さんは前々から行ってみたいと言っていたんですが、このときはまだ自治会長をやっていて、なかなか時間が取れなかったんですね。体調もたびたび悪くなっていた時期でもありました。そんな状況が続いていたので、「どこかで決めて、連れて行こう」と、こちらで決めまして(笑)、なかば強引に連れて行ったんです。体調が良くなって、しばらく落ち着いてる時期を見計らって、「佐川さん、スカイツリー行きませんか」って声をお掛けして。行った先で車椅子を借りて乗っているので、体調がかなり悪かったことはたしかです。でも非常に喜んでおられました。

──佐川さんとの思い出は、ほかにもいろいろありそうですね。

そうですね。以前、資料館の仕事の一環でインタビューしたことがあったんですが、佐川さんは全患協運動も長くやられていた方ですし、さまざまなエピソードを長時間にわたって話してくださいました。そのインタビューの最後のところで、自分がこうしてやれるのも、ウチのかあちゃんが元気でいてくれるからなんだ、手伝いもいろいろしてくれるからねって言っていて、そのビデオを、いつか佐川さんの奥さんに見せてあげたいと思っていたんです。

奥さんには佐川さんが亡くなったあとの上映会でお見せしたんですが、ああいうことば、奥さんに面と向かって言ったのかなあ。佐川さんの性格からして、たぶん言ってないと思うんですが、言えばよかったのに、とあらためて思いました。毎日顔を合わせていると、なかなか言えないんでしょうけど、そう思っていたことは間違いない。でも言わない。そこも佐川さんらしいと思います。

 

国家公務員一般労働組合国立ハンセン病資料館分会 公式ホームページはこちらから
https://hansensdignity.com

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