支援者インタビュー〈黒﨑 彰さん〉

インタビュー

Profile
黒﨑 彰(くろさき・あきら)さん……新潟県小千谷市生まれ。知人から渡された『いのちの初夜』(北條民雄著)を読んだことでハンセン病療養所の存在を知り、多磨全生園を訪れるようになる。全生園の写真記録を始めたのは2002年から。ハンセン病図書館員を務める山下道輔(やました みちすけ)さんと知り合い、友人としての付き合いは山下さんが亡くなる2014年まで続いた。日本写真家協会会員。

ハンセン病資料館には
忘れてはならない前史があった

──黒﨑さんは山下道輔(*1)さんと長年友人として付き合っておられたわけですが、資料館初期の資料集めについては、どんな話を聞いていましたか。

*1 山下道輔(やました・みちすけ)氏。1929年生まれ。ハンセン病図書館主任を長年務め、現在あるハンセン病資料館の礎を築いた人物のひとり。12歳で国立療養所多磨全生園に入所、少年舎で寮父をしていた松本馨氏から薫陶を受ける。当時の少年舎には、後に詩人として名をなす故・谺雄二氏もいた。著書に『ハンセン病図書館──歴史遺産を後世に』(柴田隆行編。社会評論社刊)がある。2014年10月没。

山下さんはハンセン病関係の本を神田の古書店街へ探しに行ったりしていましたけど、自転車で出かけていって朝から晩まで探すんですよね。しかもピンポイントで狙いを絞って行くんです。神田の何々書店に行って、この本を探す、みたいな感じでね。どこの書店に、どんな本がありそうか。それがわかるくらい通ってたってことですね。療養所のまわりにある近くの古書店も、すべて網羅していました。

全国から資料を集め始めたときも、当時の山下さんっていうのは多磨全生園の執行委員に過ぎないわけですから、全国的にはまったく無名なんですね。そんな人が頼んでも、なかなか資料は集まらない。最初は各園が出している機関誌から集め始めたそうですけど、それすらものすごく苦労したんだと言ってました。

2003.7 全生園機関誌の山桜・多磨の抜本を探す (モノクロ写真提供・黒﨑 彰氏 禁転載 以下同)

それで草津にいた親友の谺さん(*2)に手紙を書いたんですね。人に頼みごとするのが苦手な山下さんが、節を曲げて「資料を集めたいが、なかなか集まらない。資料になるようなものを何でもいいから送ってほしい。とくに機関誌を探している」って、谺さんにお願いした。すると谺さんから栗生楽泉園の機関誌全冊と、おもだった書籍がどさっとまとめて送られてきた。そのとき道輔さんは、ああ、資料ってこうやって集めるのかって思ったそうなんです。そこから各園に手紙攻勢。徐々に資料が集まっていった。

*2 谺雄二(こだま・ゆうじ)氏。1932年生まれ。詩人。1939年にハンセン病を発症し多磨全生園に入所、寮父・松本馨氏の影響により文学に目覚める。1951年、草津にある国立療養所・栗生楽泉園へ転園。著書に『鬼の顔』『死ぬふりだけでやめとけや』などがある。2014年没。

あとは支部長会議が行われる際に、多磨の自治会長だった松本さん(*3)の鞄持ちとして各園へ同行するわけですね。それで自分は図書館や資料を収集している人たちのところへ行って、譲ってもらえる機関誌や本は譲ってもらう。それが無理なものは、一晩かけて手書きで書き写す。そういうことをずっとやったそうです。当時はまだコピー機ってものがなかったですからね。

*2 松本馨(まつもと・かおる)氏。多磨全生園で寮父を務め、この頃教えを受けた子どもたちのうちに谺雄二氏、山下道輔氏などがいた。失明後も活発に活動を続け、多磨全生園自治会再建、『全患協運動史)』『倶会一処』などの編集指導など、業績は多岐にわたる。1974年から1987年までの13年間、全生園自治会長職を務めた。2005年没。

あの人が字が上手いっていうのは、そういう経験があるからなんですよね。病気の後遺症で手の感覚がないのに、あれだけの達筆で、かなりの速さで字を書く。あれは大量の文書を書き写すという経験がものを言っていたんでしょう。努力の人ですよ、山下さんは。

 2003.6 道輔さん(左)と、おとっつあんこと松本馨氏(右)

幾度となく出かけた
旅の思い出

──山下さんとは、よく旅にも行ったとうかがいました。

よく行きました。山下さんが大病して手術を受けたのは2005年のことでしたが、退院してからもずいぶんと旅行に行きましたよ。珍道中でしたねえ。最後の旅は、北海道と青森。山下さんが好きだった石川啄木と太宰治のゆかりの地を訪ねるというものでした。あらかじめしっかり目的と予定を決めてから旅に出るのが山下さんのスタイルでしたね。

亡くなる10日前、山下さんが病室のベッドの上に正座して「あんたには、お世話になった」って、お礼を言われたことがあったんですよ。正座なんてできるような状態じゃなかったのに、背筋を伸ばしてね。あれは堪らなかったです。でも、お世話してるとか、そういう気持ちってまったくなかった。

ボランティアでやってくる学生さんとか、見てると山下さんの世話を全部してあげちゃうわけですね。外に行くときは杖出してあげて、歩くときは腕組んであげて、食事するときは割り箸割って渡してあげて。僕は横で見ていて、それは違んだよって何度か言ったことがありました。そういう世話をするよりも、ずっと一緒にいてあげることが大事だと考えてましたから。

──黒﨑さんにとって、山下さんってどんな存在だったんでしょうか。

友達みたいなものかな……うん、友達ですね。人生の師でもあるしね。山下さんのこと、とにかく僕は大好きだったんですよ。

(2013.9 重監房跡地を訪ねる)

資料館問題について思うこと
山下さん、谺さんの記憶

稲葉さんたちがつくったパワハラ、セクハラの一部を抜粋したリストがありますね。館長や資料館のこういった問題が表に出てきて、それを弁護するために学芸員有志みたいな人たちが出て来ざるを得ない状況になったわけでしょう。彼らも、ある意味道具として使われているわけですよね。

裏を取らないで片方の意見だけ聞いてはいけないとか、そういうことを言う人たちもいるみたいだけど、そういう人の顔を見れば、誰のために言ってるのか、よくわかります。でも、真に受ける人もいるんですよね。

私は全生園、資料館とは写真を通じてしか関わっていないけど、山下さんがハンセン病資料館から距離を置くようになっていく様子というのも、横で見ていたわけなんです。10時に開いて、4時過ぎには閉まってしまう。重要資料の貸出しもしない。そんな図書館じゃダメだと山下さんは言ってました。資料は使ってもらって初めて意味があるっていうのが、彼の持論でしたから。

多磨でハンセン病図書館にいた山下さん、草津の谺さん、この2人の友情と、おとっつぁんこと松本馨さんを思う気持ちが、資料館の元をつくったということなんでしょう。私も、それがなかったら谺さんと出会わなかったですよね。

じつは山下さんは谺さんのお兄さんと同い年で、すごく親しかったんです。山下さんは足が良かったので、東京中の古書店を自転車でまわったりしてましたけど、谺さんのお兄さんは足を痛めてしまって、それが原因で足を切断した。その後もいろいろあって、結局お兄さんは亡くなってしまうんですね。

そんなわけで山下さんは谺さんから兄貴を奪ったのは自分なんだ、という責任をずっと感じていたと思います。谺さんは草津楽泉園に転園していたから、会わないで済ますこともできたけれども、山下さんはあえて毎年草津まで顔を見せに行くことによって谺さんに自分を認めてもらおうとした。山下さんも苦しんでたけど、谺さんも苦しかったでしょう。

あの2人は少年舎で一緒になって以来の親友でしたけど、谺さんの方が3歳年下なんですね。でも山下さんのことを「山下君」と呼ぶ。道輔さんは「谺さん」と呼ぶんだよね。これはおかしい、と思って酒の席で「谺さん、山下君はおかしいでしょう。あなた道輔さんより3個下なんだから」って言うと、谺さんが、あの顔で「なにぃ」とか怒りだしてね。面白い人でしたよ。

(2010.9 道輔さんと谺さん 石楠花荘にて)

「患者が集める、患者のための資料」
この言葉がもつ意味と重み

松本馨さんが多磨誌に書いてましたけど、なぜ資料を自分たちで集めなければならないかというと、自分たちの歴史を残すためには、資料がなかったら抵抗できないからなんです。国が強制隔離はなかったと言っても、それを否定する資料がなかったら、なかったことにされてしまうかもしれない。山下さんも「患者が集める、患者のための資料」って、しょっちゅう言ってました。資料を集めることは、自分たちを守ることでもあるんですね。

そう考えると、今の資料館は心配だよね。柊の垣根があんなに簡単になくなっちゃったことにも驚いたし、それに対して資料館として今も公式に抗議していないわけでしょう。これは、やっぱり心配ですよ。

学芸員も同じで、18年っていう長い年月をかけて築いてきた実績や人間関係を、そうやすやすと切ってはいけないんですよ。ハンセン病のことは1年2年といった短い時間じゃ理解できない。何か気づいて始めるまでに、何年もかかることがあったりすると思うんですよ。

貴重な資料だって、稲葉さんがいたから安心して預けられた。そういう人がたくさんいます。私自身も山下さんの写真パネルを資料館に預かってもらってるけど、稲葉さんを信用して預けた面が大きかったですからね。あの写真は、山下さんの資料と一緒に保管してもらうべきだろうなって思ってたから。それがこんなことになるとは、思ってもみなかったです。

今の状況で資料館に復職しても、辛い現実が待っているわけでしょう。それでもなぜ戻るかといったら、あの資料館をつくった人たちに対して責任を感じているからなんですよ。職場の人間関係なんて、ある意味どうでもいいんです。それよりも守らなくちゃいけないものがある。その責任を果たすためにも、稲葉さんたちは、あの場所に戻らなくてはならないと思っているんです。

──それが松本馨さんや山下さん、谺さんの遺志を継ぐことにもなるんだと。

そう思います。生前、道輔さんは資料館についてこんなことを言っていました。この言葉の意味というものを資料館に関わるひとり一人に、もう一度よく考えてもらいたいです。

「資料は しまい込まないで もっと活用してほしい
 壊れたら なおして また使えばいい」         山下道輔

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