僕のなかの「全生園物語」
亀井義展
序のような──新しい始まり
2019年秋、僕は国立ハンセン病資料館・映像ホールの舞台に立っていた。20代はじめから18年近くにわたって生活介護の仕事を続けた多磨全生園から、恩人たちから、大好きだったじいちゃん、ばあちゃんたちから離れて、20年の年月が経っていた。
ハンセン病資料館の秋期企画展「望郷の丘」──盲人会が遺した多磨全生園の歴史──のトークイベント、「元職員が語る多磨盲人会」のなかで元職員として、長く盲人会を支えてきた吉野志げ子さんとふたりで、会の活動や、そこで出会った方たちの思い出を話すことになったのだ。
この企画を担当した学芸員2人から最初に打診されたとき、僕には、
「当事者でもない、家族でもない自分に何が話せるのだろう……」
という戸惑いと一緒に、
「これは松本さん、市川さんやじいちゃん、ばあちゃんたちが僕にくれた、復活の機会なのかもしれない……」
という思いがあった。
イベント当日の10月22日朝、僕は多磨全生園の納骨堂の前で手を合わせたあと、ハンセン病資料館に向かった。
前日からかなりの悪天候だったが、会が始まる頃には雨、風もゆるんできて、今の職場である救世軍自省館の仲間たち、かつての職場である狛江さつき会(精神保健分野の支援NPO法人)の仲間たち、全生園で知り合った「やさぐれ会」の同志と、そこにつながる人たち、フレンズ国際労働キャンプ(FIWC)の学生たちなどが集まってくれた。
トークイベントの前半は吉野さんが盲人会の活動、会で尽力された方たちのエピソード、盲人会会長を務め、満身創痍の身体で99歳まで生き抜かれた坂井春月さんの思い出を話され、後半はおもに僕が、不自由舎センターで出逢ったお年寄りたちの日常のひとコマや、未熟な若造だった僕をずっと見守り続けてくれた恩人たちのお話をした。
*回復者の方々のこれまでの苦難、人権回復への闘いは、僕などが語ることではなく、『倶会一処〈くえいっしょ〉』『望郷の丘』、坂井春月さんの歌集『ナナカマド』をはじめ、沢山の書籍がハンセン病資料館に収められている。興味のある方は、ぜひご自分で読み、学んでみてほしいと思います。
トークイベントで僕は、隔離収容の暮らしのなかで、不自由なお年寄りたちが、どんな世界のなかで小さな楽しみを見つけ、生き抜いておられたか、ほんの少しでも伝えられたら……と思った。
病気の後遺症で盲人となり、手足も不自由な方と車イスや腕を組んで出かけるとき、付き添う僕らは、
「桜が咲き始めたョ!」
「菜の花がきれいだョー!」
と、園内の様子を話す。すると、ときおり、その花びらを自分の唇や舌でさぐられる方がいる。そんな姿を見て、僕は「残ったわずかな感覚(*)で、季節の移ろいや命の気配を感じておられるのだろうなぁ……」と思う。盲人の方がつくられた、こんな歌があった。
盲人我いつよりか花を食ふ癖あり
庭の花の味 大方記憶す
笹川佐之
*ハンセン病は後遺症で手足に感覚の麻痺が出ることが多い。けれど唇や舌に、かろうじて感覚が残っている人もいるのです。
亀井義展(かめい・よしひろ)
学生時代にフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)主催の韓国ハンセン病快復者定着村・労働キャンプ参加。その後仙台の本屋で『倶会一処 患者が綴る全生園の70年』を手にし、当時の多磨全生園入園者自治会会長・松本馨(まつもと・かおる)氏に手紙を書く。それが縁となり1981年秋より多磨全生園で盲人会、入園者の生活介護の仕事に従事。1998年に退職後、精神保健の作業所、グループホームなどで働く。2017年、友人の紹介で救世軍自省館(清瀬市)で働くことになり、およそ20年ぶりに全生園に通うようになった。