Profile
栗山和久(くりやま・かずひさ)さん(元「らい予防法国家賠償請求訴訟を支援する市民の会」事務局長)……学生時代に兵庫青い芝の会の障害者に出会い、自立生活支援の介護を続け、小規模作業所の職員を経て、現在はNPO団体に所属しヘルパー派遣事業所の職員。兵庫県下の障害者団体の事務局に関わり教育、介護保障、行政要望等の活動を行っている。1990年代、宝塚の作業所職員時代にハンセン病問題と出会う。1980年代から活動する「らい園の医療と人権を考える会」の個人が手伝われ作成された邑久光明園盲人会の記念誌「白い道標」に書かれていた舌読に衝撃を受ける。障害者問題とハンセン病問題を重ねて考える重要さに気付く。以降、訪園活動や在園者の聞き取り作成の手伝いに関わり、1998年熊本地裁への国賠訴訟の提訴を受け兵庫の地で「らい予防法違憲国賠訴訟を支援する市民の会」事務局長として2004年まで活動する。
国立ハンセン病資料館で今、何が進行しているのか
ハンセン病問題にもう一度向き合う、私の拠り立つところ
はじめに
私たちは、1998年7月ハンセン病国賠訴訟の熊本地裁への提訴を受け、長年にわたり「らい園の医療と人権を考える会」の個人それぞれが重ねてきた、主には邑久光明園の在園者とのつながり、特に故中山秋夫さんが国賠訴訟の原告に立ち上がろうとされていることを受け、兵庫の地に「らい予防法国家賠償請求訴訟を支援する市民の会」を1999年に立ち上げた。
以降、当初は月に一度のニュースを発行、2001年熊本地裁判決以降も、退所者問題、熊本判決に対する隠然とした批判や国の巻き返しに抗していくべく、また在外被爆者訴訟問題等、他の諸問題とハンセン病問題を重ねながら、元患者や家族の声、この国に巣くう根を明らかにしようと、ニュースを60号にわたり発行し続けてきた。しかし、中山秋夫さん(2007年)をはじめ、つながりのあった在園者が次々と亡くなっていかれたこともあり、10余年前に市民の会としての活動を終えた。
大阪人権博物館とハンセン病資料館を重ねて見る
そんな私たちに、東京の元「国賠訴訟支援の会」の田中等さんから、国立ハンセン病資料館に長年勤務する学芸員が解雇された事を不当とし撤回を求める支援要請が届けられ、また国賠訴訟支援からつながりを継続してきた東京の方から巻頭掲載の文章が届けられた。その末尾に以下、記されている。
「入所者の募金活動から始めた資料館はやがて国立とはなったが、本来は部外者である請負団体が歴史を゙修正゙し、国側の不都合な資料を、その価値を知らないまま隠蔽する事を怖れる。まるで虐殺のような大阪人権博物館休館のニュースに憤慨しつつハンセン病資料館を横目で見る」。
文中で指摘されている大阪人権博物館(リバティおおさか)は「そもそも、地元の被差別部落の人たちが小学校用地にと資金を集めて取得し、市に寄付した土地だ。小学校の移転後、大阪府・市の支援で同館は1985年に設立された」ものである。
しかし2000年頃から政治の右傾化を受けての「逆風」が襲い、2004年には戦闘服の右翼集団が押しかけ、行政から展示内容を弱めるようにとの要望。そして2008年初当選した橋下徹知事が補助金削減を始めると共に「差別、人権などネガティブな内容だ」と批判し展示内容の変更を求めた。同館は存続を重視して受け入れたが、2012年同館を視察した橋下知事は「考えが合わない」と翌年度からの補助金を全廃、さらに高額な敷地賃料請求、大阪市は話し合いにも応ぜず敷地返還を求める提訴を行った。そして2020年6月19日、「総合的に人権問題に取り組む国内唯一の博物館」として35年の歴史を有する大阪人権博物館は建物を解体し敷地の返還を余儀なくされたのだ。
被差別部落の人たちのわが子の教育への願い、必死でお金を集め土地を買い市に寄贈した歴史、その経緯に込められた痛切な思い、そんなことを一切切り捨てる強権的な政治と黙々と従う行政。そんな在り様への怒りと、国立となったハンセン病資料館の現在の問題を重ねて見る視点に、私たちはハッとさせられた。そしてハンセン病資料館をめぐる動向についての諸情報や資料を集め、改めて検討することになった。資料館をめぐる今回の問題の背景には一体何があるのか。それを問う今回の作業は、同時に、私自身、長らく遠ざかっていたハンセン病問題に改めてもう一度向き合うためのものである。
Ⅰ ハンセン病資料館と不当解雇問題
資料館学芸員の不当解雇の内容
不当解雇撤回を求めての支援要請の内容はおおよそ以下の内容である。
解雇の4年前、2016年から一部学芸員に対して繰り返されるパワハラや嫌がらせ、人権啓発を担うべき資料館でこのような労働者への権利侵害はあってはならず、2019年9月にこのような不当労働行為に抗するため、3名により「国家公務員一般労働組合国立ハンセン病資料館分会」を結成。
資料館の管理運営受託者である日本財団と6回にわたる団体交渉を行うが、ハラスメントの存在自体を認めず何ら改善されなかった。そして組合結成から半年後の2020年3月、管理運営受託者が日本財団から笹川保健財団に変わり、今まで一度も実施されたことのなかった採用試験が突如行われ、採用基準や試験結果も一切開示されないまま、2名が不採用となった。学芸員は突然の無職状態になった。まさに労働者が不当に解雇された「労働問題」として「国家公務員一般労働組合」と「同ハンセン病資料館分会」等により支援が呼びかけられる。
解雇された稲葉氏は18年もの長期にわたって資料館に勤務し続けてきた。何十年間も自分達で資料館を維持し守り続け、「今ある資料館の姿勢を何があっても維持していくのだ」(注:あるインタビューでの稲葉氏の言葉)との在園者の思いを受け、「(資料館学芸員を)一生かけて続けよう」(同引用)、そんな熱い思いを持った学芸員がなぜ追放されねばならなかったのか。一体その背景には何があるのか。
ハンセン病資料館の歴史
稲葉氏らの不当解雇が「管理運営受託者の変更」によって行われたのは明白である。それについては後で触れるが、ハンセン病資料館がこれまでどのようにして設立、維持運営されてきたのか、その歴史的な経緯、国賠訴訟勝訴判決を受け、様々な国家賠償という流れの中、「国立」となって10余年を経、何がどう変わろうとしているのか、そのことが今回の問題を明らかにするうえで重要なポイントではないかと思う。
ハンセン病資料館の足跡は以下のように記されている。
「1993年6月25日、高松宮記念ハンセン病資料館として開館。自分達が生き抜いてきた証として資料を残す活動として1969年以来取り組んできた多摩全生園入所者自治会図書室をベースにして、全国のハンセン病療養所入所者自治会で組織する全国ハンセン病入所者協議会(全療協)が実質的に設立した。入所者自身による手作りの博物館施設で、主な目的は、自分たちが生き抜いてきた証を残すことと、社会に同じ過ちが繰り返されないよう訴えかけることだった。
2007年3月31日、国立ハンセン病資料館としてリニューアルオープン。らい予防法違憲国家賠償請求訴訟における原告勝訴を受けて、国が補償の一環として名誉回復措置を講じるためにハンセン病資料館を拡充したもの。この時から、ハンセン病患者・回復者の名誉回復が資料館の目的に加わった」
(「国家公務員一般国立ハンセン病資料館分会」支援要請文より引用)
私は「市民の会」の活動の中で多摩全生園の故山下道輔氏の名前をよく耳にしたことは記憶している。全療協ニュース(2018年5月1日)によれば資料館について以下、記述されている。
「1969年に再建された自治会では盲人の松本馨さんが会長になっていた。松本さんは自治会の方針として要求運動だけでなく、来し方をふり返り、関係の文献を収集するためのハンセン氏病の図書館を建設し、山下道輔さんを中心に据え、やがて中古資料の収集も始めさせた」
その後も図書館の増築、資料展示室の開設がなされ、その費用は全て自治会会計、在園者自らのお金によっていた。資料展示室には在園者がかつて使った家具や食器、当時支給された衣服や寝具、補装具、農耕および作業器具などが年表に沿って配置され、所々に故人となった入所者の絵画や書が飾られていた。
戦後、全患協(「全国国立らい療養所患者協議会」、全療協の前身)による予防法闘争とその敗北、その後も闘われた処遇改善要求により徐々に改善されたとはいえ、決して余裕があるわけではない生活の中から、在園者が身銭を切って資料館が少しずつ形作られてきたのだ。
そして1991年3月、藤楓協会、所長連盟、全患協、有識者により「ハンセン病資料館資料調査会第一回総会」が開かれ、資料館建設について話し合われ、同年11月には全患協として資料館建設の募金協力を決定、1992年6月には資料館建設予定地で安全祈願祭、全生園に「ハンセン病資料館建設促進委員会」が設置、10月から約2か月をかけて在園者の故佐川修氏と大竹章氏が全国の15園を回り資料の収集と調査が行われた。そうして1993年に「高松宮記念ハンセン病資料館」が設立されたのだ。
「高松宮記念ハンセン病資料館」への移管によりつぶされた「ハンセン病図書館」
以上が全療協ニュースから引用、要約した国立ハンセン病資料館に至る経過である。しかし、私たち「市民の会」設立前、その母体となった「らい園の医療と人権を考える会」の1980年代からの訪園活動等により「ハンセン病図書館」の中心にいた山下道輔さんとの交流の中で、同図書館から「高松宮記念ハンセン病資料館」へと移管する経過を、元「市民の会」代表だった山下峰幸が聞いている。
山下道輔さんらは「ハンセン病図書館友の会」を結成し、最後までその存続を求め続けていたのだ。しかし当時の多摩全生園自治会は図書館の存続を受け入れず図書館は閉館となった。しかし現在も「友の会」で活動してきた関係者により「ハンセン病文庫・友の会誌『朋』」が現在も発行されており、巻頭掲載の文章冒頭には以下のような記述も見られる。
「山下道輔さんがお亡くなりになって、もう5回目の夏が来る。氏が集められたハンセン病資料の一部は草津に送られたが、紆余曲折があり、めぐりめぐって東村山の資料館に入った。繰り返されるテーマだが、ハンセン病資料、誰のものかに行きつく」
ここにはハンセン病資料の本質と同時にその行く末についての危機感が書かれているが、それはどこから来るものなのか。高松宮記念ハンセン病資料館の初代館長の大谷藤朗氏の次の文章がその在り処を如実に語っている。
「高松宮記念ハンセン病資料館には,どのような品々が展示されているのでしょうか。第1には,ハンセン病患者さんに対して,そのご生涯にわたりご仁慈を賜った貞明皇后様,高松宮様をはじめ救らい事業の先駆者たちの写真と,簡単な略歴が掲げられていて,大まかな輪郭を知ることが出来ます。
忍性菩薩 一遍上人 テストウィード神父 コール神父とマリアの宣教者五人の修道女…(中略)…光田健輔…(中略)…井深八重 小川正子
しかし先駆者たちが,どういう時代にどういう役割を果たしたかの評価については,資料館では何も書かれず何もなされていません。それは今のところ人により評価が分かれ,一致した見解を出すのが大変難しいからですが,『偏見差別を問う』というのなら,それはいずれ避けて通れないことです。また,同じように私を含めて,政治家から国民の一人ひとりにいたるまで,いずれ時いたればその責任を問われるのです。歴史とはそういう厳しいものと思います」。
(大谷藤郞著『ハンセン病 資料館 小笠原登』藤楓協会 1993年)
皇室の御仁慈の下での強制隔離政策の歴史について「先駆者たちが,どういう時代にどういう役割を果たしたかの評価については,資料館では何も書かれず何もなされていません。それは今のところ人により評価が分かれ,一致した見解を出すのが大変難しいからです」と大谷氏は言う。山下道輔さんたちがなぜハンセン病図書館の存続を訴えねばならなかったのか、皇室の名「高松宮」を冠した資料館に自分たちの資料が移管させられることになぜ抵抗せざるを得なかったのか、その理由はここにあったと思う。
国立移管の14年前、予防法廃止前の1993年の「ハンセン病図書館」の廃止と「高松宮記念ハンセン病資料館」への移管の問題は、今回の事態への前史として押さえなければならない事実であろう。
解雇された稲葉氏の資料館への思いと資料館の変質
インタビューで稲葉氏は、学生時代に学芸員課程を履修、卒業後にある地方の美術館に就職、しかし営利目的で詐欺的な在り方に疑問を感じ退職。その後大学院の助手時代、偶然ハンセン病資料館へ見学に行き、初めてハンセン病問題に触れ衝撃を受ける。その後同資料館で学芸員募集がされていたため応募し2002年に採用され、解雇された2020年3月までの18年間、資料館に勤務し続けてきた。
インタビューで稲葉氏は、勤務してからの思い、特に何十年にも及び在園者自らが資料を集め資料館を維持してきた思いに非常に触発された事、全国の在園者が資料館にいかに期待しているのか、そんなことを佐川氏との関わりの中で実感し以下のように応えている。
「佐川さんがしていた仕事というのは、僕が入る前も、入ってからも全く変わらなかったと思っています。基本にずっとあるのは、『今ある資料館の姿勢を何があっても維持していくのだ』という考え方なんですね。それを学芸員である僕らにも受け継いでほしいと思っていたのではないでしょうか。
1993年に資料館ができる前、佐川さんは大竹さんと一緒に全国の療養所をまわり、貴重な資料を集めて回ったわけですが、そのようなことがなぜできたかというと、全国の自治会、入所者の人たちとの信頼関係がまずあって、その上で任せられたからだと思うんです。一方、佐川さんの側にも、託された信頼を裏切ってはいけないという思いがずっとあったのではないかと思います」
と述べ、さらに「国が出してきた政策に従うだけ、あるいは国の言い分をなぞるのではなくて、あくまでも自分たちが中心になって、当事者の歴史は当事者が残す。ハンセン病資料館の存在意義とは何かと言えば、このポリシーを貫くことでしょう」と述べている。
そして「資料館の変質」について以下のように稲葉氏は述べている。
「この4年間くらいの間に厚労省の言う『ハンセン病資料館に期待すること』が大きく変わってきているということです。実はこの4年で資料館の啓発活動についてのみ、厚労省から方針が出るようになりました。それ以外の資料収集・保管、展示といったものについては、指示やコメントは何もありません」と。
インタビューの中で、あくまで資料館への職場復帰を求め闘い続ける理由を聞かれ、稲葉氏は「資料館が変な方向に進んでいくと分かっていながら、ただ傍観しているだけで済ませたくない」としている。その根底には、全国の在園者が資料館にかける思い、全国の療養所を全て回りその思いを受け止め資料館の維持運営に生涯を費やされた故・佐川修氏との出会いが稲葉さんを支えているのだろう。
(「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟を支援する市民の会 編集発行によるニュース 1999年5月~2008年8月まで 計61号を発行した。 写真提供:栗山和久氏)
今回の資料館問題に対する全療協の見解
以上、この問題について解雇された稲葉さんの側の主張をもとに書いてきたが、「全国ハンセン病療養所入所者協議会」(全療協)は今回の問題に対しどう捉えているのか。手元にある『全療協ニュース』によれば、2018年6月1日号では以下記述されている。
「(有識者会議)第三回の会議では、第一回の会議に引き続いて、大竹章委員(全療協元嘱託)から、国立ハンセン病資料館問題が提起された。資料館の運営は日本財団が受託して行っているが、資料の保管等に大きな疑問がある。入所者自治会が膨大な手持ち資料を資料館に提供した趣旨が守られていない」とし、提供した資料の中にはプライベート情報も数多くあり「保管に問題がある以上、自治会として返還を要求せざるを得ない」としている。そして、今回の不当解雇問題につながる指摘として、「学芸員の人事についても問題が見られる。退職して日本財団に移る事を勧められた者もいる」として、全療協として国に対して是正のための交渉を近くに行い、統一交渉団として「国などに対して資料館の国による直営方式の再採用を要請したい」といった意見が出されたと報じられている。
さらに資料館の運営の在り方として、「資料館が近時、全国的に大きく展開し始めた社会啓発活動も問題ではないか。国、自治体、社会など、各界の加害責任が十分に盛り込まれていないのではないか。差別偏見が今も根強く、退所者の多くが今後は療養所に戻ることも選択肢にせざるを得ないといった厳しい状況が正しく語られているのか、このような意見も示された」と報じられている。解雇から2年前の時点で、すでに有識者会議という公の場で委員から上記のような意見が出されたのである。以下、その後の流れと内容を全療協ニュースから要約する。
2018年6月22日 (「ハンセン病問題対策協議会」座長:高木厚労省副大臣)
「日本財団が独断で行った機構改革に伴う大幅な人事異動や運営内容、さらには展示内容等々、国立ハンセン病資料館の問題で活発な意見が出され新たな課題として提起」
2018年10月3日 全療協と厚労省等との交渉
資料館の不当な人事異動により本来中心にいるべき学芸員不在の在り方/業務の停滞と混乱/事前に当事者である全療協に何の相談もなかったこと/それへの厚労省からの謝罪/明らかに入札制度の弊害であり国の直営方式を要求。
以降、全療協として支部長会議などで資料館問題が議論され、「現行の入札制度を廃止し国の責任で直営方式」を求め「資料館の主体性を守る闘い」として確認された。
2019年4月 全療協として資料館館長人事についての不当性を抗議
この間の不当な人事を行い展示内容にも問題があり、しかも92歳という超高齢の成田稔館長の再任は「常軌に逸している」等、強く抗議する。
また今回の問題のきっかけと背景にある「運営受託者」に関して経過をまとめると以下になる。
・2007年国立へ移管、2009年から入札制度になり、科学技術振興財団が受託した。受託以降、何の問題もなかったが2016年に科学技術振興財団から日本財団に突然、厚労省は変更した。
・日本財団が受託して3年目の2018年4月、何の前触れもなく突然資料館の機構改革とそれに伴う大幅な人事異動を断行。
・日本財団が受託して以降、特に2018年4月から、資料館から全療協に対して事前の連絡や相談、事後の報告も一切なかった。
・全療協として、資料館の運営委員会に機構改変の意図を聞いても一切回答はなく、また日本財団に受託者が変更になった経緯を聞いても厚労省から明確な回答もなく、受託者を決める審査委員会の委員氏名の情報公開を2回求めても、いずれも却下された。
・2020年度の入札に日本財団は応札せず、代わりに笹川保健財団が手を挙げ運営受託者となった。
さらに全療協ニュース(2019年4月1日)では、過去の資料館に対する国の不当な横やりとして以下の事実を改めて指摘している。国立に移管した2007年、リニューアルオープンに際して、「厚労省の意向が強く働き展示内容の大幅な後退が余儀なくされた」とし、当時の全療協委員長・宮里光男氏は記念式典の挨拶として以下述べたと紹介している。
「展示内容は極めて不十分だとの印象を受けた。検証会議の報告もその一部しか語られていない。今後さらなる努力によって、より濃密な歴史的事実が市民の前で語り伝えられるよう期待する」
同ニュースによれば、「この発言は内外の注目を集め展示内容の見直しを行う」とされている。しかし国、厚労省は「見直す」どころか、自ら手を下さず、入札制度という隠れ蓑を利用し、運営受託者を国の意向に沿う団体に変更し資料館の在り方や理念を捻じ曲げ、在園者自身の運営から国主導へと転換、そのためには稲葉氏らを資料館に置くわけにはいかなったのではないのか。
しかし労働法上、解雇はできないため、かつて一度も行われなかった「採用試験」を敢えて実施し、厚労省・「日本財団」・「笹川保健財団」が一体となって実質的な解雇・追放を「試験の結果による不採用」と偽装したのではないのか。