支援者メッセージ〈栗山和久さん〉(2)

支援者メッセージ

Profile
栗山和久(くりやま・かずひさ)さん(元「らい予防法国家賠償請求訴訟を支援する市民の会」事務局長)……学生時代に兵庫青い芝の会の障害者に出会い、自立生活支援の介護を続け、小規模作業所の職員を経て、現在はNPO団体に所属しヘルパー派遣事業所の職員。兵庫県下の障害者団体の事務局に関わり教育、介護保障、行政要望等の活動を行っている。1990年代、宝塚の作業所職員時代にハンセン病問題と出会う。1980年代から活動する「らい園の医療と人権を考える会」の個人が手伝われ作成された邑久光明園盲人会の記念誌「白い道標」に書かれていた舌読に衝撃を受ける。障害者問題とハンセン病問題を重ねて考える重要さに気付く。以降、訪園活動や在園者の聞き取り作成の手伝いに関わり、1998年熊本地裁への国賠訴訟の提訴を受け兵庫の地で「らい予防法違憲国賠訴訟を支援する市民の会」事務局長として2004年まで活動する。

 

Ⅱ 貫かれている国・厚労省の意思

ハンセン病療養所の今

(国立療養所)
・松ヶ丘保養園 84名 ・東北新生園 71名 ・栗生楽泉園 78名 ・多摩全生園 176名 ・駿河療養所 61名 ・長島愛生園 186名 ・邑久光明園 111名 ・大島青松園 58名 ・菊池恵楓園 244名 ・星塚敬愛園 145名 ・奄美和光園 29名 ・沖縄愛楽園 160名 ・宮古南静園 65名 ※私立ハンセン病療養所神山復生病院 5名
計1473名 (2017年5月時点)

 ハンセン病国賠訴訟熊本地裁判決を控えた2001年2月1日時点で療養所入所者総数は4417人、平均年齢73.9歳。16年を経て1/3に減、2018年時点で平均年齢は86歳。

 熊本地裁判決から約20年、時の経過の早さを改めて感じたが、同時に自身のかかわりがそれだけ長く途絶えていた事を恥じるしかない。熊本地裁判決と控訴断念以降、全原協、全国弁護団の多くのたゆまぬ取り組みにより、退所者、非入所者への補償が勝ち取られ、そして昨年2019年6月28日には家族訴訟も原告勝訴し、再び国は「極めて異例」の控訴断念をした。私は新聞報道等でしか知ることがなかったが、ハンセン病問題は「勝ち続けている」との印象をこれまで抱いていた。

 しかし今回、全療協ニュースを読み、その思いは覆えされた。毎年開催される「らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日」の式典では衆参両院議長、国会議員などが参加し開催されている。2018年6月に開催された式典で安倍首相は代読メッセージで「現在、療養所にお住いの方の平均年齢が86歳になっており、これらの方々がこれからも安心して穏やかに暮らしていけるよう私たちは今後とも真摯に取り組んで参ります」と挨拶した。

 しかし同式典で挨拶した全療協会長の森和男氏は医師確保が進展しない事に触れ、「長年続けられた定員削減は不自由者棟に限らず、施設運営や入所者の生活全般にも影響を及ぼしています。誤った隔離政策を続けていた国が、効率優先の合理化政策で再び入所者の人生を踏みにじることは断じて許されません」と抗議の意思を表明している。
また、2018年度4月に開催された全療協第78回定期支部長会議の宣言文にはこう記されている。

 「ハンセン病療養所では、医療の要である医師・看護師充足の課題が依然として解消されず、今年もまた重要課題として取り組まなければならない状況にある。特に医師については充足率70%台まで下がり、加えて副園長不在の施設が4か所もあり、医師不足は深刻度を増すばかりで、命に対する不安は募るばかりである」。

 そして「将来構想」や「永続化問題」に関して、

 「療養所の将来構想の構築と施設の永続化の問題も重要な課題であるが(中略)将来構想にしても永続化問題にしても事態は逼迫しており、全療協にとって道筋を示すことが急がれている。しかしながら、これまでの経緯を考えると、私たちの議論だけで簡単に結論を導き出すのは難しい。しかも私たちに残された時間は少ない」
 とし、「在園保障」問題も含め第三者による検討の場として2018年1月に「有識者会議」(座長:内田博文九州大学名誉教授)が設置された。

 近い将来、各園の自治会そして全療協組織自体の維持ができなくなるという逃れられない現実。国からの合理化に抗すべき当事者がいなくなっていく時、「医療介護が必要な高齢者」の処遇問題としか扱われない事への無念さを思わざるを得ない。

 このような療養所を取り巻く状況から今回の資料館問題を見るなら、処遇問題については具体的な解決策を妥協も含めて現実的に受け入れざるを得ないだろう。しかし、らい予防法による終生絶対隔離政策によりどれだけの人が自らの人生を奪われたか。国の犯罪と、それに抗した患者自らの闘いを資料館に残し、社会に問い続ける事が最低限の尊厳を守ることではないのか。だからこそ近年そう紛糾することなく継続してきた全療協と厚労省との協議に、新たな課題としてこの資料館問題を提起し、全療協は抗議並びに要望を継続しているのではないか。

今回の問題に対する厚労省の態度

 2018年10月に行われた全療協と厚労省との交渉の中で、資料館をめぐる人事と運営委託先に関する全療協の抗議に対して厚労省難病対策課は以下のように回答している。

 「資料館の運営の直営方式はなかなか難しい。他にも広島、長崎の平和記念館とかあるが外部の事業者に運営委託している」

 「運営委託の公募条件はこれまで資料館等の運営経験があるかどうかだった。そうなると手を挙げられるのは科技団しかなくなり、公募の意味として不公平な感じになる」

 「外部から不公平との指摘はない。運営委託を行う際に会計の手続きを取るので、内部の方から公平ではないのではないかとの指摘を受けて変更したと私は引き継いでいる」

 「学芸員の採用も運営委託している日本財団がやっているので何かあれば基本的には日本財団に相談する仕組みになっている」

 何という官僚的な答弁なのか。行政交渉でよくある「私は引き継いだだけ」という無責任回答、「他施策との整合性や公平性」により特別扱いできないとの答弁、そして「委託した以上、受託団体と相談して決める」とし、当事者である全療協を蚊帳の外に置くのは当然とばかりの回答。一体なぜ資料館が国立になったのか、資料館のこれまでの歴史はどうだったのか、資料館にかける在園者の思い等を無視するばかりでなく、一般施策として扱って何が悪いのかと言わんばかりの居直った姿勢すらこの答弁から感じる。

 国賠訴訟勝利とそれ以降の闘いの成果として、「国家賠償」として資料館を国の責任において運営する「国立」が勝ち取られた。しかし一方では「国立」である以上、資料館は国の意思ひとつで変わり得る危うさが今回の資料館問題を通じて顕わになったのである。


(「らい」園の医療と人権を考える会編集による冊子 らい予防法を問う 1987年1月発行/続「らい予防法」を問う 1991年9月発行/「らい予防法」を問う 1995年11月第一刷発行 発行:明石書店 写真提供:栗山和久氏)

国賠訴訟で原告ら在園者を恫喝した厚生省官僚

 このような国・厚労省の姿勢を見て、私は国賠訴訟のことを想起した。

 熊本裁判が結審を目前にし、国は厚生省官僚、療養所所長5人の証人申請を行い、11月10日証人尋問が行われた。その1人、らい予防法廃止時に厚生省担当課長であった岩尾総一郎氏は国側尋問で、1996年まで法が存続した理由について以下答弁した。

 「隔離条項こそが療養所の存続など福祉施策の法的根拠だった」
 「入所者も療養所での生活を望んでおり、廃止を要求しなかった」
 「差別や偏見は有史以来あり、法とは無関係」

 そして予防廃止時に、厚生省と全患協との間で、個人補償でなく療養所の処遇を一律に継続することで、補償問題は解決したと証言。そして今回の裁判で、少しでも請求が認められたら──。

 「これまでの前提が崩れ、現在の処遇を根本的に見直さなければならない」
 と証言したのだ。

 いま読んでも怒りに震える。当時「市民の会」として5人の陳述書をニュースに全文掲載し抗議の呼びかけとして、60頁にもわたる臨時号を組んだ。その巻頭の「お願い」として以下のように記した。

 「本気で園から出て行けと言うのならば言ってみよ。原告・在園者等を今なお恫喝するこれら証人を本当に許すことはできない。私たちは全力でこれら証人に対する反論・抗議の声を上げる必要があると考えます」。

 熊本地裁での原告側尋問では徳田弁護士らによりことごとく国側証人を圧倒した。

 徳田弁護士は「目の前で殺された産まれたばかりの我が子を返してと裁判で訴えている原告がいますが、そうした悲痛の思いを訴える場としての裁判というものの意義を証人はお認めにならないのですか」と国側証人に迫った。さらに裁判長からも「処遇を見直すとは具体的に何をおっしゃっているんですか」「裁判で原告が勝った場合には、処遇の見直しをするとおっしゃりたいわけですか」と問い、最後に「仮にそういうことであれば、裁判を受ける権利を侵害することになるということはお分りですか」と国側証人に釘を刺したのだ。裁判長から問われた証人の1人の園長は「裁判の結果でいかなる不利益も起きないようがんばります」と、うろたえ答弁した。そして熊本地裁判決は全面的に原告が勝訴した。

 しかしこのような国・厚労省官僚の本質は今もなお根底に貫かれているのではないのか。熊本地裁判決後においても、菊池恵楓園由布園長は悪質な判決批判を繰り返した。また日本ハンセン病学会は極めて形式的な反省と謝罪しか表明しなかった。隠然とした旧来の勢力が今どうあるのかは分からない。しかし資料館に関わって以下のような事実が全療協ニュースで報じられている。

資料館館長 成田氏の過去の言動と現在

 国立ハンセン病資料館の「常設展示図録2008」の「はじめに」で成田館長は以下、述べている。

 「実は再開館当初から,特に常設展示に対して,旧資料館(高松宮ハンセン病資料館)の展示に劣るという批判が出ていました。その事情は,旧資料館が隣接する国立療養所多摩全生園入所者を中心とする当事者のいわば手作りであったのに対し,新資料館のそれは入所者らの手が入っていないところにあるようです。確かに,展示の筋書き(内容や解説)こそ,旧資料館の状況を知悉している学芸員らが当初作成したものですが,厚生労働省の監修を経る間に表現が部分的に和らげられ,さらに展示制作者の手によって見た目の良さが強調された感があります」。

 あたかも外部の識者のような極めて第三者的な解説に強い違和感を感じる。成田氏は館長ではないのか。「入所者らの手が入っていない」資料館の在り方をおかしいと思うなら、なぜ改善しないのか。国賠訴訟が勝利し国家賠償として国立へと移管された直後の2008年において、すでに「旧資料館(高松宮ハンセン病資料館)よりも劣る」と、それを、成田氏は自身の見解は示さず極めて傍観者な態度で示している。

 それは、先に紹介した「高松宮ハンセン病資料館」の「救らいの先駆者の評価は定まらず何もなされていない、しかしそれは未来において断罪される」と、大谷氏自身の悔恨が示されているが、大谷氏の言う「未来における断罪」は国賠訴訟によってなされた。それ以降においてもなお成田氏は「厚生労働省の監修を経る間に表現が部分的に和らげられた」ことに何故、抗しなかったのだろうか。

 さらに、全療協ニュース(2019年5月1日)一面の見出しに大きく「資料館館長人事で厚労省に全療協本部が抗議」とある。抗議の内容は92歳と高齢の元多摩全生園園長の成田稔氏を館長にしたことへの抗議である。超高齢で病もある成田稔氏の館長就任は「常軌を逸する」とし、昨年4月にも再任延長した成田館長の動向を注視していたが、「突然学芸部長と同課長を左遷、学芸部を壊し事業部を新設した」とし、成田館長による資料館の運営に対して全療協は「極めて不可解」だとしている。

 そして以下の事実が重要であるが、成田館長自らが提示した「国立ハンセン病資料館常設展示更新に関する基本概要」に、「救らい事業の創始者、救らいの勲功者の掲示は別段で扱う」との一文がある。同ニュースでも「救らい」という言葉を平然と使う異常さを指摘しているが、それにしても成田氏の言う「救らいの勲功者の掲示」とは一体何なのか。

 『むらぎも通信』1996年6月に初回掲載され、2000年11月「市民の会ニュース18号」に再掲された「公然と生き残った光田イズム」(山下峰幸)の一文、内容は1996年の「らい予防法見直し検討会報告」に対して詳細な事実をもって批判しており詳しくは参照いただきたいが、成田稔氏(当時「見直し検討会」委員長)が報告書の中に次の一文、

 「終わりに、救らいの旗印を掲げて隔離を最善と信じ、そこに生涯をかけた人の思いまでを、私たちには踏みにじる権利が無い」

 を反対を押し切ってでもあえて挿入した事実が示されている。

 1955年に多摩全生園の医務科に勤務して以降、60年以上ハンセン病問題に関わり、上記のよう予防法廃止を位置付ける重要な「らい予防法見直し検討会」報告書にこの一文を何としても挿入したことと同様、今回の資料館展示内容を人事や機構を大幅に改変してでも「変質」させようとの意思が貫かれているのではないか。

 また国・厚労省は、国が「運営又は設立する」資料館で、日本のハンセン病政策への批判が公然となされることに対する時間をかけての巻き返しが、成田氏の再任、運営受託者の変更、資料館の機構や人事の改変等、そして稲葉氏らへの解雇を通し、いま徐々に進行しているのではないか。

 中山秋夫さんは国賠訴訟の陳述の最後をこう締めくくった。

 「納骨堂には、死んで骨になっても故郷に帰れない者たちが眠っています。しかしそれとは全く対照的に、終生絶対隔離の中心にいた光田健輔という人は、このような骨々を残したことで『救らい』の功労者となり、国から文化勲章を受けています。勲章を受けて永眠している者と、骨になってもどこにも帰れない者、この事実を放置して、法の廃止でもってすべて終わったなどと言えるのか。この不条理を私は国に問いたい」。

 その陳述にふれ、山下峰幸はこう記している。

「中山さんの問いは、光田健輔を刺し貫き、今私たちが生きるこの国の根底に横たわる『不条理』そのものへと、遠く向けられているのである」(『鎮魂の花火』中山秋夫 あとがきより)。

(3)へ続く

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