Profile
栗山和久(くりやま・かずひさ)さん(元「らい予防法国家賠償請求訴訟を支援する市民の会」事務局長)……学生時代に兵庫青い芝の会の障害者に出会い、自立生活支援の介護を続け、小規模作業所の職員を経て、現在はNPO団体に所属しヘルパー派遣事業所の職員。兵庫県下の障害者団体の事務局に関わり教育、介護保障、行政要望等の活動を行っている。1990年代、宝塚の作業所職員時代にハンセン病問題と出会う。1980年代から活動する「らい園の医療と人権を考える会」の個人が手伝われ作成された邑久光明園盲人会の記念誌「白い道標」に書かれていた舌読に衝撃を受ける。障害者問題とハンセン病問題を重ねて考える重要さに気付く。以降、訪園活動や在園者の聞き取り作成の手伝いに関わり、1998年熊本地裁への国賠訴訟の提訴を受け兵庫の地で「らい予防法違憲国賠訴訟を支援する市民の会」事務局長として2004年まで活動する。
Ⅲ ハンセン病問題と障害者問題
旧優生保護法裁判 東京地裁判決
ハンセン病国賠訴訟の家族訴訟の勝訴が勝ち取られた翌日の2020年6月30日、旧優生保護法による強制不妊手術への国賠訴訟の東京地裁判決が出た。しかしそれは先んじて下された仙台地裁判決より大きく後退した内容の原告敗訴の判決で、全国の原告・弁護団、障害者団体から強い抗議の意思が表明された。再び異例な政府の「控訴断念」となったハンセン病国賠家族訴訟と対極的な優生保護法裁判判決の厳しい結果。裁判所そして国の判断がなぜこうも違うのか。以下、優生保護法裁判について見る。
2019年5月28日の仙台地裁判決では、知的障害を理由に不妊手術を強制された宮城県内の60代と70代の女性が国に損害賠償を求めた事に対し、旧優生保護法が憲法違反だと判断した。子どもを産むかどうかを自ら決定できる「性と生殖に関する権利」は幸福追求権などを規定した憲法13条によって保障され、不妊手術を強制された原告らは幸福を一方的に奪われ「権利侵害の程度は極めて甚大」と指摘し強制不妊に関する旧優生保護法の規定は違憲、無効だと判断した。しかし「民法724条により手術から20年を経過したので損害賠償請求権は消滅した」と、原告の損害賠償請求する権利は認めず、また国会が賠償するための法律を作らなかったことについての責任も認めず、原告の請求を棄却したのだ。
この仙台地裁判決に続いて約1年後の東京地裁判決では──
・「旧優生保護法の違憲性については判断を回避」
・「手術は60年以上前であり除斥期間を適用して訴えを退ける」
・「1996年には、法改正で強制不妊手術の規定が削除され、提訴が可能な状況になっていた」
とし、仙台地裁判決より大きく後退した内容の判決であった。
報道で明らかにされた残酷な優生保護政策の実態
ハンセン病元患者に対してなされた「断種」、その被害も含めたハンセン病国賠訴訟判決に触れて旧優生保護法裁判で原告側が訴えた事に対し東京地裁判決では以下のように述べている。
「ハンセン病については療養所に強制隔離され治癒後もその生活を続けざるを得ない状況が長期にわたり、『優生手術を受けた者(障害者)の置かれた問題状況とは質的に異なる』」とした。
「質的に異なる」と判決でいう。しかし、一体何がどう異なると言うのか。優生保護法裁判弁護団は「両者の被害をこのように比較すること自体が不当で、被害者を分断するもの」と批判する。
ハンセン病訴訟時と同様に毎日新聞社が旧優生保護法裁判に関して精力的な取材、全都道府県に対する調査も実施され、多くの事実が報道された。
・「遺伝性精神薄弱」を理由に9歳の女児と10歳の女児が不妊手術(宮城県)
・毎年のように11歳の男女が不妊手術(宮城県)
・知的障害者施設で入所の条件として不妊手術の同意書を取っていた(山形県)
・精神薄弱児に対して、「診断医は誰でもよい」「本人や親権者の同意は必要としない」「保健所に積極的に申請書を提出すること」と行政が知的障害者施設に通知する。(北海道)
・「月経の始末もできない」との理由で10代の女性障害者が不妊手術。(神奈川県)
・仕事熱心で成績も優秀な男性が統合失調症を発症、半年後に症状が改善されたにもかかわらず断種手術の対象になった。(神奈川県)
・強制不妊手術の対象者を決める際に4親等以内の親族の性格や身体状況、嗜好等29項目の調査を徹底するよう保健所に通知。(北海道)
・優生保護法第4条「遺伝を防止するため」の手術費用は国負担だが、同12条「遺伝性でない場合」には、手術件数を増やしたい都道府県が「手術費用の負担が難点。補助金を支給すれば家族らの同意を得やすい」と補助金を県費で補助する規則を作成し実施。(神奈川県、兵庫県、福島県)
そして何より、旧優生保護法裁判の原告の多くが、「何をされたのか分からなかった」「後で聞かされて初めて知った」との証言にあるよう、本人の同意を取るどころか、騙してでも手術を強制していた、厚生省通知に残る「欺罔」の実態が次々と明らかになっている。障害者は子どもを産んではならないのだとの施策がいかに徹底されていたか。まだ幼い9歳、10歳の知的障害児童への手術に驚愕する。なんと残虐な行為なのか。
そして地域での支援制度も何もない時代、ようやく辿り着いた入所施設で、入所条件として示される不妊手術、それをのまざるを得ない親子、逃れる術どころか何をされるのかも分からない知的障害者と立ちすくむ親の姿を想像する、なんと酷薄なことか。全国各地で1人も取り残さず強制的に断種するとの国家の強い意志、それに従う自治体、保健所が競って県費を投じても手術数を増加させたのだ。
日本の障害者施策の歴史、隔離収容施策を謝罪しない国
障害者の置かれてきた歴史を見るなら、東京地裁の原告もそうであったように、教護院など少年施設収容者に多くの「精神薄弱児」が収容され、日本が高度経済成長期、戦後15年を経た1960年にようやく「精神薄弱者福祉法」が制定、しかしそれは全国各地の巨大な施設建設、コロニー構想という隔離政策に至った。また1950年には知事・警察・保健所により本人の同意なしで入院させることができる措置入院制度を含む精神衛生法が制定、現在も継続する「精神科特例」(他科より少ない医師・看護師で認可される)もあり精神病院建設ブーム、1964年ライシャワー駐日大使傷害事件(いわゆるライシャワー事件)により「精神障害者の野放しは危険、隔離収容すべし」との世論を背景に長期入院政策が強まる。現在の障害者制度では「入所施設・精神科病院からの地域移行」を各自治体に数値目標も示すことが義務付けられているが、過去の国が行った隔離政策に対する謝罪は一切ない。
そして1970年代、世界的には国連「障害者の権利宣言」が出され、ヨーロッパ諸国での施設から地域へとの流れに反し、日本では「1971年社会福祉施設緊急整備5カ年計画」により「重度障害者全ての施設収容」が目標として掲げられ、1975年厚生省35号通達では「一日4時間以上の介護を要する場合には、その処遇等を施設によって図るべきである」とされていたのだ。
重度の障害を持つ身体障害者、知的障害者、精神障害者の多くが座敷牢に、また親が障害のあるわが子を殺す事件や親子心中が1950年代~1960年代には多発、現在でも同種の事件は無くなってはいない。そんな地域で生きられない時代に、入所施設に「希望」を託さざるを得なかった多くの障害者。障害者運動の初期の大きな闘いとしてあった府中療育センター闘争で、入所時に遺体解剖の承諾が取られていたことが告発された。
先日も報道されていたハンセン病療養所での遺体解剖の実態が障害者施設でも行われていたのだ。このような施設や精神科病院への収容のなか、ある者は施設入所の条件として、ある者は精神科病院を退院する条件として、ある施設では多くの者が順番に、強制的に不妊手術を何の説明もされず、時に騙され受けさせられたのだ。
ハンセン病問題と障害者問題 くさびを打つ国
ハンセン病者らへの断種と障害者への強制不妊手術の歴史的背景は異なるであろう。しかし国を挙げての優生政策、隔離政策という根本において同質ではないのか。
「両者の違い」を言うのなら次のように言えるのではないか。
戦中の多くの死者という犠牲を伴いながら、敗戦後の民主化とともに療養所入所者によって発足された「全国国立らい療養所患者協議会」(全患協)。しかし光田健輔ら三園長の国会証言「懲戒検束」「徹底した患者収容」「患者家族も断種」などによる法改悪に対して、1953年各園での作業スト、国会前座りこみ、ビラまき、デモ行進、死力尽くした「らい予防法闘争」、患者自らによる激しい闘争、しかし反対闘争は「世論の理解を得るに至らず」、政府に押し切られ、「らい予防法」は改正されてしまった痛恨の歴史。
その後、療養所内の医療・福祉の充実の諸要求、予防法闘争から43年後の1996年国主導による「らい予防法の廃止」、しかし「国主導」であるがゆえに国家・個人の責任を問わず隔離政策の過ちを議論の対象から外した法廃止の在り方では決してハンセン病問題は解決しえなかった。そして亡くなった療友の「弔い合戦」として、園内の様々な桎梏を乗り越え予防法闘争から45年を経た1998年「国との真正面からの喧嘩」としての国賠訴訟。
それら全患協の長い苦難の闘いの歴史に比べ、1970年代以降、青い芝の会を先頭とした「障害があって何が悪い」と自らの身体を武器に障害ゆえに排除し続ける教育、行政、交通機関等に対し先鋭的に闘われた障害者運動。時に親、家族により、また専門家により「愛」「保護」の名のもとに支配され、その枠を突破した極めて少数の障害当事者によってしかなされず、「層」として形成されえない歴史との違いがあるのだろう。
先に紹介した報道で紹介される優生手術の凄まじい実態を裁判上で正面から訴える原告当事者の不在、いや、その障害ゆえに訴えること自体の困難さを抱えざるをえない障害者の立場。そして法的違法性を争う裁判では個別原告の手術の証拠、個別具体的な被害の内容・実態しか取り上げられない司法の限界がそこにはある。
東京地裁判決では「我が国における優生思想自体は被告が作出したものではなく、その排除は現実問題として必ずしも容易であるとはいえない」と言う。しかし、ナチスドイツの「断種法」を模して戦前に成立した国民優生法、戦後においても全政党が賛成して成立した優生保護法、同法があったからこそ戦後においてもハンセン病療養所で断種が継続されてきた、このような同法の罪深さに対する司法の側の責任や痛みをわずかでも感じるどころか、強制的に不妊手術を強いられた原告を前に、なぜこのような「観念的な空論」を語れるのか。裁判に立つ原告の向こう側に、浮上しえない幾多の残酷な被害の事実を裁判官は直視すべきではないのか。
政府及び国会は、被害者に対する一時金支給制度を仙台地裁判決前に早々に成立させ、国家としての謝罪でなく安倍首相の「お詫び」により幕引きを図ろうとする。そこには決してハンセン病国賠訴訟のようにはさせないとの国家の意思が透けて見える。様々な闘い、諸問題に国はくさびを打つ。それに抗し、私たちは横につながっていくことこそが求められている。
私たち「市民の会」はハンセン病問題と障害者問題を同根のものとしてとらえ、国賠訴訟支援、特に熊本地裁判決前には県内各地でミニ集会を開催してきたが、そこには常に障害者、障害者の親が参加していた。断種、優生保護法に関わり、ハンセン病国賠訴訟で堕胎されられた原告の意見陳述とある障害者の証言を抜粋して以下に紹介する。
「手術が終わって、『忘れる』と決めました。でも、おっぱいが出たんです。黄色いお乳でした。お乳が痛くて痛くて、泣きました。昭和38年、主人と社会復帰しました。でも、もう二度と妊娠はしませんでした。主人と夫婦関係を持つことが、怖かった。妊娠したくなかった。聞いたはずもない、殺された私の赤ん坊の声。でも、ずっと私の耳に聞こえていました。だから怖かった。一生に一度の妊娠はあの時だけでした。私のおなかに入ってくれたのは、『操』だけでした。生んであげたかった。『操』に会いたかった。今でも『操』の年を、数えてしまいます。この悲しみはいつまでも消えないのです」
(ハンセン病国賠訴訟熊本地裁原告番号16番 意見陳述より抜粋2000年12月8日)
「結婚、妊娠、出産した時の、一番嬉しいはずの時すら、私にはただただ恐怖しか感じられなかった。『あんたみたいな障害者が親やったら、産まれてくる子が可哀想や。この子の為におろしたら』と自分の親に言われ、『優生保護法の指定の病院があるから、一緒について行ってあげる』と親しい友人からも言われ、『絶対に籍をいれたらあかん』と連れ合いの親からも言われ、私は悔しさと恐さが入り交じった、身の置き所のない感情に襲われた。私は、瞬間自分も子どもも殺されるのでは、と思った。この時ほど、『優生保護法』という法律の恐ろしさを、実感したことはなかった」
(志智桂子作『蓮根放浪記』より抜粋)
時代も背景も異なる。看護師から恥辱の言葉をあびせられながら局所麻酔で目の前で我が子がお腹から掻き出される母親の、死ぬその日まで消えることのない「悲しみ」。それから数十年後、周囲の猛反対を受け優生保護法に怯えながらも必死の思いで出産した重度の脳性マヒの障害者の悔しさと恐怖。
政治の現実、司法の限界を超えたところで、この二つの証言が交差しつながっていく、そうした場で私たちは活動してきた。目の前の闘いにおいて敗北が繰り返されようと、私たちは「闘いの芥子種」として抗していく、そんな思いで私たちは「市民の会」の活動を行ってきた。
(むらぎも通信NO133号 「らい予防法」廃止問題特集号 1996年6月 兵庫解放教育研究会発行/「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟を支援する市民の会 編集発行による冊子 『壁をたたく音がきこえる』/〈対話の場〉の創造へ ハンセン病・朝鮮 そしてわたしたち 写真提供:栗山和久氏)
Ⅳ 私たちの拠り立つところ
歴史修正主義に基づく「変質」に抗し続ける沖縄県立平和祈念資料館
今回のハンセン病資料館の「変質」に関わり、以下の事実を挙げる。
【沖縄県立平和祈念資料館】
「1945年3月末、史上まれにみる激烈な戦火がこの島々に襲ってきました。90日におよぶ鉄の暴風は、島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去りました。沖縄戦は日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘でありました。
沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあり、その数は10数万におよびました。ある者は砲弾で吹き飛ばされ、ある者は追い詰められて自ら命を絶たされ、ある者は飢えとマラリアで倒れ、また、敗走する自国軍隊の犠牲にされる者もありました。私たち沖縄県民は、想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。
この戦争の体験こそ、とりもなおさず戦後沖縄の人々が、米国の軍事支配の重圧に抗しつつ、つちかってきた沖縄のこころの原点であります。
”沖縄のこころ”とは、人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心であります。
私たちは、戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人びとに私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民個々の戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立いたします」。
(同資料館ホームページより)
以上が沖縄県立平和祈念資料館の紹介文である。しかし同資料館はどのような変遷があったのか、要約して記したい。
【旧県立資料館】
・靖国神社奉賛会の支部である沖縄県戦没者慰霊奉賛会(現:沖縄県平和祈念財団)により開館。
・旧帝国陸軍の牛島満中将の遺影や辞世の歌、日章旗や拳銃や銃剣等の武器類といった軍用品等遺品を展示。
【1970年代~】
・資料館に沖縄戦の伝承の基本構想や理念は何もなく沖縄戦の研究者たちにより「沖縄戦を考える会」(準備会)が結成。
・1975年6月20日付けで屋良朝苗知事と沖縄県議会に対し展示内容の問題点を指摘し展示改善を求める意見書を提出。
・1978年10月リニューアル開館され旧帝国陸軍による県民虐殺の内容などが盛り込まれる。
・沖縄戦は激しい地上戦で文書の記録が残っておらず、当時の住民の証言を多角的に集めた物を展示。
【一方的な変更案】
・開館直前時、稲嶺知事は監修委員会の議題に掛けず、県庁の文化国際局に展示内容の変更を指示。
・変更案は以下。
・「従軍慰安婦」の慰安所の場所を示した「慰安所マップ」の展示しない方向
・「皇室、国体に対する観念が徹底しておらず」など日本軍の対沖縄人観も削除対象方針
・「捨て石作戦」を「持久戦」/「根こそぎ動員」を「県民の動員」/「15年戦争」を「アジア・太平洋戦争」などの表現の変更
・「幼児の口封じを命じる兵士」「青酸カリによる自決強要」の表題も「書き換える」。
【変質から守り抜く】
・1999年8月、上記の変更案が沖縄地元紙の記事に掲載。資料館監修委員会のメンバー、労働組合、沖縄平和運動センター等の団体から強い抗議。内容を元に戻すことを県は了承。
・「新しい歴史教科書をつくる会」が祖国を守るため多くの兵士が命を捧げた事実を展示要求の申入れ。
・しかし、監修委員会の主張により展示内容の変更はされなかった。
以上のように沖縄県立平和祈念資料館は歩んできた。幾多の変質にも抗し続けた。沖縄の反戦平和運動の力により押し返したが、現在も工事が進行している辺野古基地建設反対運動がいかに苦難な闘いであるのか。沖縄県は国相手に裁判闘争も含め満身創痍の困難な闘いを継続している。生身の人々の運動が無ければ資料館の変質圧力を押し返せなかったであろう。日本で唯一の地上戦となった沖縄、本土の捨て石となり、米軍の進行と同時に日本軍からも抑圧された沖縄の人、その歴史は決して変質させてはならない。
「市民の会」ニュースをふり返って
「市民の会」ニュース42号に「竜田寮児童通学拒否事件」に関わる「全患協運動史」での報告文書が掲載され、今回改めて読み直した。
熊本県菊池恵楓園付属の保育施設竜田寮に住む子供たちが地域の黒髪小学校への通学を一部PTAらが強固に反対する、いわゆる「黒髪小学校事件」(1954年)の一文である。賛成するPTAが脅迫されたり石を投げるなど、行政が介入しても一切やまなかった事件。現在条例等により規制されても止むことのないヘイトスピーチ、朝鮮学校の問題と重ねて見えた。同「運動史」の最後の一文にはこう書かれてあった。
「全患協、恵楓園自治会は死力を尽くして闘ったと言ってよい。これ以上続けることは不可能であった。それはそれとしても、基本的な教育を得ずしては生きてゆけぬ現代社会のシステムの中で、爪はじきされそうになった一ト握りの子どもたちの問題をうやむやのうちに終わらせたことは、次のそして次の問題を生む要因となりはしないか。その後、サリドマイド、視力、ろう啞、心身障害児の教育疎外がどれほど多く問題になったことか。
障害児にも正当な教育を受ける権利がありながら、いつも『健康な大勢の子どもの中では』という曖昧な理由で拒まれ続けてきた。差別思想を子どもの中に持ち込んではならない」。
凄まじい差別排外に妥協せざるをえなかった無念の思い、それを障害児等の教育に思いをはせている。同事件から60年以上が過ぎる今日、県下でたった1人の定員内不合格になり高校教育から排除された車椅子の祐也君、地域の幼稚園に続けみんなと一緒に地域の小学校に行きたいとの願いは市教委から拒否され一方的な就学通知、それを不当として裁判に訴えるが認められなかった和希君。
1970年代から養護学校義務化反対運動を機に全国に広がった障害児の共生教育運動、私自身もこの30年余り、その運動に身を置いてきたが、「個々に応じた教育」との特別支援教育という一見優しげに装いつつ、能力主義に基づく差別選別教育により文科省はより一層分離教育を推進している。「昔と何も変わっていない」と立ちすくむ障害児親子。障害児が地域の学校から排除されている中で行われる「障害の理解・啓発教育」がいかに空疎な物であり、分け隔てられた上で進められる「交流教育」がいかに悔しく辛いことなのか、障害当事者から多く語られている。これらが障害者差別解消法が施行され国・行政が謳う「共生社会」の真実ではないのか。
全患協が黒髪小事件の痛苦の総括として示す「差別思想を子ども中に持ち込んではならない」との願いは、ヘイトスピーチの標的にされ高校教育無償化や様々な施策から排除される朝鮮学校に通学する子どもたちの問題も含め、現在もなお果たされていない。そんな視点でハンセン病問題をつないで見、私は活動している。
再び、大阪人権博物館について
部落解放同盟兵庫県連の北川真児さんは、邑久光明園の故竹村栄一さんの岡山地裁での原告尋問を傍聴し、部落問題と重ねながら、「市民の会」ニュース18号で次のように記している。
「らい予防法という悪法の下、『差別と隔離』の60年を生き抜いてきた竹村さんの『生』の声にひどく心を揺さぶられた思いがする。私が毎年春に参加する『部落解放尼崎青年集会』には部落のたくさんの青年が集まる。私も含め、部落の青年たちの悩みは職場、家庭、恋愛のことなど様々である。同じような痛みを持つ、同じような境遇の、青年たちの集会でさえ、『おのれを語ること』はいつも一番つらい作業である。(中略)部落の青年たちは、自分たちが部落の外へ一歩、足を踏み出せば、世間の目がどれほど残酷なものであるかを体の芯の部分で覚える。自分たちが虐げられてきた歴史に対し、『当たり前』を主張することが世間で受け入れられない事も知っている。
(中略)裁判の翌日、もう一度『生きて、いま』を読み直す。この聞き書きで竹村さんが語る問題と、私たち部落の人間が抱える問題とは見事なまでに一致している。竹村さんが『予防法』が廃止された今になってなぜ、声をあげたのか。世の中に放置され続けてきた不条理に声を上げていくことこそが『人としての尊厳を取り返す』唯一の手段なのだと、『水平社宣言』を思い出し、改めて自分に言い聞かせてみる。今わたしたち部落の青年は、この国賠訴訟の原告の方たちとつながる機会をもらった。『あたりまえ』を主張することの大切さを、つながるという事の本当の意味をこの裁判を通じてもう一度、さらに深く考えてみる必要があるだろう」。
再来年、2022年で全国水平社結成から100年を迎える。日本の反差別人権運動の先駆けである全国水平社、その部落解放運動の大きな成果として勝ち取られた大阪人権博物館は、「私の考えに合わない」との一政治家の権力により閉館に追い込まれた。政治、国家権力を手にすれば、民意は負託されたとますます強引に進められる強権政治。民衆による闘いは時に圧殺され、また巧妙に抑え込まれていく。
10年近くを経過してもいまだ復興されない東日本大震災、とりわけ原発放射能被害に対する裁判闘争は継続され先日も国の責任を認める原告勝利判決が勝ち取られた。しかし震災や原発事故の教訓を伝える目的で9月20日に開館した「東日本大震災・原子力災害伝承館」での被災者による語り部の内容に対し、福島県から出向する同館企画事業部長は「国や東電、県など第三者の批判を公的な施設で行うのはふさわしくない」とし、語り部の原稿を事前にチェックし添削、また語り部が特定の団体を批判した場合は口演を中止、語り部の登録から外す等の説明もされたという。
「被害者である私たちが加害者である東電や国を批判的に語れないのはおかしい」
「東電から精神的苦痛を受け、国にも怒っている。自分にとってはそれが真実。自分の 思いを伝えることが批判に当たるならば、語り部を辞める」
被災者にこう言わしめる、これが私たちが生きるこの国の現実ではないか。
私たちの拠り立つところ
1982年12月、全国解放教育研究会は雑誌「解放教育」臨時号を、全頁特集「転換期に直面するらい園の内外」として発行した。その編集前記に以下書かれている。
「『全患協運動史』や各園の貴重な、血の出るような自治会史、園史をわたしも読む。園の人権闘争史はすぐれて、全患協・患者自身によって推しすすめられたのである。人権闘争の何であるかを鮮烈に示している。わたし流にいえば、『水平社宣言』に何と酷似している闘いかと思う」。(福地幸造)
また、私たち「市民の会」ニュース37号(2002年9月)に収録され、中山秋夫さんの詩集『囲みの中の歳月』の後書きにも記されている以下の一文を少し長くなるが引用する。
「再び『長島』を訪れることになるのには、兵庫における解放教育運動との出会いがあった。
隠れていた私を引っ張り出したのは福地幸造さんであった。自らが組織した解放教育運動──その末端に私も繋がっていた──への苛烈な弾圧が続いていた1980年、退職した福地さんは『自分自身へのオトシマエ』としてハンセン病問題に、藤本松夫救援以降20余年の時を距てて、再び関わり始めていた。それを横目で見ながら、しかし私は自分がかつて『長島』に行ったことは口にしなかった。話にも乗らなかった。それがある時ふっと『実は……』と口をすべらしたのが運のツキで、それから連日のように、福地さんの広角度のアンテナにとらえられた未知の人の話や関係資料、本の膨大なコピーなどが手渡されだした。その中には大西巨人の『ハンセン病問題 その歴史と現実、その文学との関係』などもあり、まさに『ハンセン病問題』の太い背骨を見るとともに、『部落問題と癩問題とは、そこに世人の正当な関心が集まりにくいという点において相似していて、しかもその未解決は、日本民族の重大な二つの恥部である』という指摘、視点は、私自身の問題意識をより鮮明にしていった。
他方、『長島』を再び訪れた私は、『山下さん、どこに姿くらましとったん』の言葉に出迎えられ、以後、金七仙さん、中山秋夫さんのお二人から、その歩んできた苦難の生を、初めてつぶさに聞かせてもらうことになった。そこにはまぎれもなく終生隔離の療養所の構造・歴史・現実の具体があった。その時、かすかに『長島への道』が私にも見えてきた。
そして今、私たちが生きる場とそことは『地続き』であり、またそこは、『部落』『沖縄』『朝鮮』『障害』……『天皇制』といったこの国の抱える諸矛盾がもっとも凝縮してある一つの場だ、とも思うようになってきた」。
(山下峰幸「中山さんの詩と真実」より)
以上に、私たち「市民の会」の視点が凝縮されている。障害者問題とのつながりだけでなく、昨年12月に残念ながら亡くなられた、戦火と干ばつ等による貧困下のアフガニスタンで活動する中村哲氏の活動をニュースで紹介しペシャワール会へのカンパを呼びかけ、また同時代に闘われた在外被爆者訴訟、在日外国人障害者無年金訴訟とハンセン病問題のつながりをニュースで特集した。
また戦時下の沖縄でも軍官民による「無らい運動」が展開された事実・証言を「市民の会」ニュース60号(2008年6月)に「沖縄戦の片隅で」の特集号を組んだ。2004年12月には『〈対話の場〉の創造へ ──ハンセン病・朝鮮 そしてわたしたち』として2003年からの小鹿島訴訟を受け、かつての植民地政策とハンセン病問題、療養所における在日朝鮮人問題、当事者の声を元に発行した。そして現在もなお継続して全国ハンセン病弁護団等により取り組まれている菊池事件に関しても、2005年に市民の会として『壁をたたく音が聞こえる ──ハンセン病患者冤罪処刑藤本事件に再審・無罪を』を発行した。
「私たちが生きる場とそことは『地続き』であり、またそこは、『部落』『沖縄』『朝鮮』『障害』……『天皇制』といったこの国の抱える諸矛盾」の中、ますます差別排外主義が強化するこの国、世界に私たちは生きる。画期的な国賠訴訟により勝ち取られたものが、そう遠い将来ではない時期に迎えるハンセン病療養所の終焉において、在園者の思いが込められたものとしてのハンセン病資料館の在り方は決して譲れぬ一線として立ち上がってきたのではないかと私は思う。
そして稲葉さんらの不当解雇撤回を求める闘いが、ハンセン病の苛酷、全患協(現全療協)の長い人権闘争の歴史に接続するとともに、この国の抱える諸矛盾下で生きる人たちの思いと闘いに結びつかんことを想いつつ、関わっていこうと私は思う。