支援者インタビュー〈中山節夫さん〉(後編)

インタビュー

Profile
中山節夫(なかやま・せつお)さん……1937(昭和12)年、熊本県菊池郡合志村(現合志市)生まれ。多摩美術大学付属芸術学園映画科(現・多摩美術大学)を卒業後、1960年に日活撮影所に入所。1962年よりフリーランスの助監督となる。1970年、熊本で起きた龍田寮事件を題材とした「あつい壁」で映画監督デビュー。ハンセン病差別を正面から採り上げた本作品は、大きな話題となった。2007年、70歳の年に菊池事件を採り上げた新作「新・あつい壁」を撮影。現在も新作の準備に奔走中。

 

「外の人って感じがしない」
「不思議な人だね」
これは自分にとって最高の褒め言葉

当時の日活はアクション映画全盛でしたから、自分のやりたい方向とは正反対。これは合わないと感じて3年ほどしてフリーになりました。1962年のことです。最初にやったのは東映教育映画の助監督。次にドキュメンタリーを勉強しようということで、朝日ニュースを撮っていた日映新社(日本映画新社)に行きました。そのときに「ある青年の出発」というテレビ用ドキュメンタリー(1965年にTBSテレビで放映)をつくることになるんです。

──東京に出てきてからは多磨全生園にも通われたそうですが、当時の全生園はどんな雰囲気でしたか。

当時の全生園には光岡(良二 *1)さん、藤田(四郎。筆名・氷上恵介 *2)さんなど、錚々たる面々がいました。大竹(章 *3)さんなんて怖かったです。物事や人の心の裏側まで見通してる感じでね。本心を読まれている気がするんですよ。いろんなことを話せるようになったのは、本当に最近になってからのことです。光岡さんも人を寄せ付けないところがありました。少年舎の寮父さんをしていた三木義雄さんとも親しくさせてもらいましたね。

*1 光岡良二(みつおか・りょうじ)氏。1911(明治44)年生まれ。東京帝国大学文学部2年のときにハンセン病を発症、1933年に多磨全生園へ入所する。作家、北條民雄と親交を持ったことや詩人としての文芸活動で知られるが、その一方で全患協(現・全療協)など患者運動にも積極的に関わりつづけた。1995年没。
*2 氷上恵介(ひがみ・けいすけ)氏。1923(大正12)年兵庫県氷上郡生まれ。幼少時にハンセン病を発症し、故郷から遠く離れた目黒慰廃園に入所。その後、慰廃園の廃止にともない多磨全生園へ転院する。各療養所の機関誌に文学作品を投稿、「オリオンの哀しみ」は、全国文学集団コンクール入選作として「新日本文学」昭和30年4月号に掲載された。1984年60歳没。
*3 大竹章(おおたけ・あきら)氏。1925(大正14)年生まれ。1944年、多磨全生園に入所。1964年、全患協(*現全療協)本部が長島から多磨に移管されたことを機に全患協本部事務局に勤務。広報部長、情宣部補佐として、おもに全患協(現・全療協)ニュースの編集にあたった。高松宮記念ハンセン病資料館の開館準備では全国の療養所を訪ね、展示資料の収集、展示立案など、中心的役割を果たした。著書に『らいからの解放─その受難と闘い』『無菌地帯─らい予防法の真実とは』『ハンセン病資料館(佐川修氏との共編著)』などがある。

全療協の前会長だった神(美知宏)さんにも「この人は恵楓園の入所者に間違われるくらいだから」ってよくからかわれました。全生園に初めてきたとき、カレーライス食べますかって言われて、全然辛くなかったけど、タダで食えるんならってことで、あるだけ全部食べたことがあったんです。こっちは7〜8年くらい前から恵楓園に通っていて、慣れてましたから。

そうしたら、あの光岡さんですら──光岡さんは、戦後進駐軍の通訳をやってたっていうくらいのインテリですが──「今日初めて療養所に来て、ごはん食べてるやつがいる」って驚いてるんですよ。要するに当時療養所にいた人が、いかに外の人間と会う機会がなかったかということです。当時の全生園では外からのお客さんには、お茶を出さないのがマナーでした。予防法がなかったら、こういうことも起こりえなかった。

──先ほどお話のあった「ある青年の出発」ですが、撮影は趙根在(ちょう・ぐんじぇ *4)さんが担当していたそうですね。

*4 趙根在(ちょう・ぐんじぇ)氏。1933年生まれ。中学を途中退学し炭鉱で働く。24歳で上京してからは撮影プロダクションで照明係として働いた。1961年に多磨全生園を初めて訪れ、衝撃を受ける。以降、全国のハンセン病療養所を訪ねるようになり、撮影した写真は2万点を超えた。1997年、64歳没。

私がなかば強引に呼んだんです。「ある青年の出発」の主人公は当時、多磨全生園に入所していた方で、この人を菊池恵楓園(熊本)へ連れて行って撮りました。ちょうど奈良で交流むすびの家(*5)をつくっていた頃で、主人公が菊池から交流の家を経て、東京へ出てくるというストーリーにしたんです。つまり、この作品はドキュメンタリーじゃなくて劇映画なんですね。療養所では──当たり前の話ですが──カメラを向けると逃げていく患者さんがほとんどでしたから。

*5 1963年、ハンセン病回復者であるロシア人、コンスタンティン・トロチェフが東京で宿泊拒否にあったことを機に、フレンズ国際労働キャンプ(FIWC)関西委員会が建設。宿泊施設のほか、各種セミナー用施設としても活用された。建設の経緯を記した書籍として『「むすびの家」物語 ワークキャンプに賭けた青春群像』(木村聖哉 鶴見俊輔共著)などがある。

恵楓園で入所者の方が麻雀を打っているシーンがありますが、私たちが気を遣いながら恐る恐る撮影していると、「正面から撮らんで、どうするんか!」と怒鳴られました。そう言いながら牌を麻雀卓に叩きつけるんですね、バシーッと。すごい迫力で、あのシーンだけはドキュメンタリーだったと思います。

あとで恵楓園自治会で長いこと自治会長をやっていた増さん(増重文=ます・しげふみ氏。菊池事件の容疑者を世話したことでも知られる)から「中山さん、あんたついにやったね」と言われました。「小説にしたい、写真を撮りたい、映画にしたい。療養所には今まで、いろんな人が来たよ。でも、ちゃんとやり遂げたのは、あんたが初めてだ」って言うわけです。

増さんからは「あんたは外の人なのに、気を使わなくていい人だね。不思議だね」とも言われました。私にとっては最高の褒め言葉です。頭もいいわけじゃないし、難しいこともわからんけれども、そういう言葉が、今につながっている気がします。

──子どもの頃から見てきたこと、自分の家に孤独を感じて人の家へ遊びに行っていた経験、そして映画。「あつい壁」は、そういうなかから自然に生まれてきたんだと。

「あつい壁」を観て、どんな真面目な人かと思って会ってみたら全然違った、そう言われることも多いですよ。実際はこんな感じだから困っちゃうんですよね。若い頃は、そういうイメージに合わせて無理にいいことを言おうとしてた時期もありましたけど、なんというか、ちぐはぐな発言が多かったと思います。でも年取ってくると、今さらどうしようもないよなあ、という思いの方が先に立ってきますね。

撮影をしていた1969年は70年安保に向けて学生運動が激しくなっていった時期で、街に革命の気風が充ちていた年でもありました。私は彼らよりもひと世代上でしたが、「あつい壁」は、そんな時代に対する自分なりのメッセージでもあったと思います。


(映画「あつい壁(1970年)」の撮影風景。 写真提供:中山節夫監督

労働組合があるのは当たり前。
なぜ、仲間が手を取り合わないのか

──中山監督がハンセン病資料館にフイルムを預けた際、稲葉さん(上道氏。2020年3月に不当解雇された組合長)の仕事ぶりに感謝したことがあったと聞きました。

フイルムのことで相談したら、資料については資料管理課長である稲葉さんに相談してくださいと言われたんですね。そしたら稲葉さんがきちんと対応してくれました。嬉しくなって、こんどメシでも食おうと言って、実際に園内にある食堂(お食事処なごみ)で一緒に食事しました。

──ハンセン病資料館で不当解雇が起きたと聞いたとき、どう思われましたか。

全療協にもお世話になっているし、世界は労働組合があるのが当たり前だし、労働問題が起きたときには組合が救わなければいけない。稲葉さんがどういう人か、ものすごく詳しく知っているわけではないけれど、組合員2名が解雇されたわけだから、この人たちを守るべきでしょう。守るっていうのもおかしいか。同じ職場で働く者として手を取り合うべきですよね。

なのに、どうして仲間同士で助け合わないのか。資料館で問題が起きていると聞いたとき、まっさきに思ったのはそのことでした。私が不当解雇撤回の賛同人になったのは、そういった一連の経緯を聞いていたからです。

でもそのときは学芸員や全生園、資料館に関わっている人は、みんな応援してるんだとばかり思ってたんだけどね。そうじゃなかったというのは驚きです。組合作ってストライキばかりやって、仕事もしないで同僚に迷惑かけたっていうんなら、まだ話はわかりますけど、そんなことはしていないわけでしょう。

不当解雇撤回署名の賛同人になったとき、印刷された手紙が送られてきて、そこには「賛同を撤回してほしい」「(賛同を)取り下げる人もいますから」と書かれていました。でも、名前まで印刷されているのに、今さら取り下げるなんてことはできません。長年、映画を撮ってきた人間として、そういうことはできない。そうはっきり言いました。

映画だって、一度世に出した作品を、考えが変わったのでちょっとこれは撤回します、みたいなことはできないわけです。こうすりゃよかったとか、「反省」はもちろん、しょっちゅうありますよ。ハンセン病資料館の不当解雇問題も同じで、組合をつくるのは労働者として当たり前の権利じゃないか、弱い者いじめをするのは何ごとだ。賛同人になったのは、そういう気持ちからなんで、撤回するなんてことはできません。

私自身、思想的に立派なものなんて何もない人間です。でも、本来だったら労働者みんなが団結して闘うべきことなのに、どうしてこういうことになってしまったんだろうか──。そういうことは思いますね。一方で資料館内部でいろいろな感情のもつれがあって、その結果このような問題になったのだとしたら、解決の糸口はなかなか見つけられないだろうなとも思います。

6年をかけて全国を回った上映会。
その経験で度胸と根性がつきました

「あつい壁」のときは、自分たちで上映会もやりました。九州からスタートして、北は北海道の襟裳岬まで。全部回るのに6年かかりましたよ。自主上映会もいいところです。おもに学校を回るんですけど、まだ学校の体育館に暗幕なんてない時代だから、窓に自前でつくった暗幕を挟んで、口に釘くわえてトンカチで留めていくわけ。体育館の上の方って、ものすごい汚れていて、暗幕張ってると着てるものが、みんな真っ黒になっちゃうんです。

映画の上映が終わると「では、この映画の監督さんにお話いただきます」って舞台に呼ばれるんですが、スタッフなんてろくにいませんから、今まで映写機回していたおじさんが舞台に上がるわけなんですよ。真っ黒な格好のまんまでね。上映会が終わると生徒の皆さんが暗幕を外して、きちんと畳んでクルマまで運んでくれました。

「あつい壁」は自主製作映画で、当時は制作費を返すのに必死でした。まあ、そのおかげで根性がつきましたね。どんなことが起きても、きっとなんとかなる。そう思えるようになりました。

上映会をやっていた頃、京浜女子(商業高校)──今は白鳳女子高等学校っていうらしいですが──という女子校が横浜にありました。そこの先生が「こういう本がありますよ」と言って、『高校生賛歌(加美越生著)』『高校生狂詩曲(服部正巳著)』という2冊の本をもってきた。「考える高校生の本」シリーズの最初の2冊です。

読んですぐ、これは映画にしたらいいなあと思いました。それで、この本どこが作ってんの、と訊いたら高校生文化研究会(高文研)というところだけど、男の人と女の人がいて、どっちが社長かわからないんですよね、ということだった。それが高文研の梅田さんと金子さん。それで映画にしませんかって、いきなり訪ねて行ったわけ。

ちょうど大田区民会館で「あつい壁」の上映会があったので、観に来てくださいと誘いました。結果、映画やりましょう(共同製作)ということになって、「青春狂詩曲」(共同映画配給。1975年)ができたんです。だいぶあとになって「あのとき、なんですぐやろうって言ってくれたの」って訊いたら、「監督がひとりで全国を回っていると聞いて、この人なら大丈夫だと思った」って言うんですね。

高校生が三無主義、四無主義と言われた時代です。テストの点数で子どもたちの将来が振り分けられてしまう、偏差値教育が始まった頃でもありました。そんなこともあって、「青春狂詩曲」は校内暴力、不登校、いじめなどで傷ついた子どもたちを主役にして撮ったんです。高教組と組んで映画をやったもんだから、以来「左の中山さん」って呼ばれることにもなりました。でも私は教育映画を撮ったつもりはありません。時代に翻弄される子どもたち、その生徒とともに闘う教師、彼らの純粋さに共感したからこそ、撮りたいと思ったんです。

私は今83(歳)ですけど、また映画撮りたいと思ってるんです。「新・あつい壁」が70(歳)になるときでしたから、もう13年前。当時は関係者も自分も「菊池事件の映画を撮ったら、もう辞める」って言っていた。いま思うと、そうやって自分を騙していたんだな。映画が完成するなんて思ってなかったから、冗談半分で「できたら辞める」って言ってたわけです。ところが完成しちゃったでしょう。そうなると、また撮りたくなってくるんですよ(笑)。

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