僕のなかの「全生園物語」
亀井義展
「ひとりの声明として」
1985年、亀井義展28歳の秋は、愉快なじいちゃんがいて、(奥さんがいるのに)愛するばあちゃんたちがいて、至福の2ヵ月だった。
その後も同世代の若い仲間たちと、少しずつ不自由舎センターに「生活介護」という視点を取り入れ、あたらしい風が吹いてきたように思えた。そんな矢先、センター婦長から「2月1日付、第1センターから第3センター東の異動」の内示が告げられた。
駆け出しの生活介護員として、第1センターで働き始めてまだ1年と10ヵ月。これから……というときの思いもかけぬ異動の内示に僕は動揺し、勤務が終わるとすぐに看護・介護部門の人事責任者であるH看護部長に会いに行った。
どうにも納得できず受け容れがたい異動に、僕は2日間にわたり、看護部長と談判し、頭を下げ続けた。
看護部長は1日目は少なくとも話を聞く姿勢を見せたが、2日目はひどく頑なな様子で、最後の「黙って第3センターに行ってください」というひと言に、僕は頭に血が上ってしまった。席を立ち、
「このままでは済ませない。闇夜の晩ばかりじゃないんだ!」(もちろん正しくは月夜の晩。アホでどうもスミマセン)と、捨て台詞を吐いて部屋を飛び出した。
悔しさと、やりきれなさが溢れだし、僕は園内にある広い野球場に立ち尽くし、ひとり夜空に向かって吠え続けた。
看護部長との話し合いが決裂したあと、センター内で勤務交替の発表が放送された。その2日後、僕は思いの湧き出るままに「声明文」を書き上げ、夜中に園内中を配布して回った。こんな声明文だ。
ひとりの声明として
亀井義展(本園介護員)
僕が第一センターに来て、一年十か月がたとうとしている。六つの寮と中央浴場を巡った最初の一年あまりは、ただ仕事を覚え、患者さん(*)たちを少しでも知ろうとするだけの毎日だった。
*当時、園内ではまだ入居者の方たちを「患者さん」と呼ぶことが多かった。当時の声明文そのままであることを、ご了承ください。
そして一年半が過ぎ、なんとか仕事にも慣れ、職員同士のつながりもできて、ようやく自分の仕事、自分なりの関わり方ができると思った。
僕の第一センターでの仕事は、今まさに始まろうとしていたのだ。
そこへ突然の配置転換の命令を受けた。僕は人事異動のすべてに反対するわけではない。また、どこのセンター、病棟にも介護、看護の手を必要としている人たちがいる。だが、このところの同僚たちの異動の仕方、そして、今回の自分に対する異動命令は、どうしても納得がいかなかった。
看護部長は異動の理由をこういった。
「いろいろな事情があって決めたことです。各センターの介護の平均化、向上化のための異動で、あなたが第一センターにいることに問題があるわけではない」と……。
だが、伸びようとする芽と頑張ろうとする気持ちを摘みとるかのごとき人事によって、本当に介護という仕事は向上するのだろうか。今いる人を育てる。今のチームでいかに仕事をよくしていくかという努力がまず第一にあるべきで、それが大切なことだと思う。「介護の自立、介護員の教育」とうたわれているが、現場にいる者たちに具体的に伝わってくるものは少ない。
現在、どのセンターの患者さんたちも高齢化が進み、不自由度が増していると思う。また、長く連れ添った伴侶や親しい友をなくし、哀しみに沈んでいる人たち、心の病をもち「もう死にたい」と訴える人たちもいる。
そうした状況の中で、ゆっくりと時間をかけて関わりをもち、お年寄りや、病んでいる人たち、悲しい思いをしている人たちと一緒に悩み、笑い、泣きながら日々の暮らしを手助けしていくことこそが、今、一番求められているのだと思う。
僕は自分の思いのすべてをこめて、
「せめてあと一年、今の現場でやらせて欲しい」と訴えた。
だが、看護部長は、「あなたの気持ちはよくわかりました。けれど、上のものたちで一度決めたことを特別に変えることはできない。今回は我慢して行って下さい」と言うのだ。
自分の全く知らないところで、勝手に決められて、
「はい、そうですか。では、また気持ちを切り替えて感張ります」なぞと言えるほど僕はお人好しじゃない。
人の気持ちは、人と人とのつながりはそんな簡単なものじゃない。
最後には、
「組織の一員として、従って欲しい。黙って行って下さい」ときた。現場をよくわかっていないうすらトンカチのおえらいさんたちが好きそうな言葉だ。
全生園という組織は、一人一人の患者さん、一人一人の職員たちによって支えられているのだ。その個人の思いを少しでも大切にしていこうとしなければ、いつか組織の実体は崩れてゆく。また、個人の小さな思いこそが、人と人との関わりをつくり、育て、職場を、介護をよりよくしてゆく原点なのだ。
一月二十一日、午後、看護部長との話が決裂した後に勤務交替の発表があった。僕は一年十ケ月の間つきあってきた患者さんへの思い、第一センターへの思い、職員同士のきずな、そのすべてをズタズタに引き裂かれた悔しさと共に第一センターを離れる。
僕はこれから先、何か月、何年、全生園に滞まるかわからない。だが、ここにいる限り、どこに異動しようとも患者さんと共に喜び、哀しみたいと願う。そして、個人の思いを押しつぶそうとする力と闘いつづけるのだ。
一九八六年一月二十三日
亀井義展(かめい・よしひろ)
学生時代にフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)主催の韓国ハンセン病快復者定着村・労働キャンプ参加。その後仙台の本屋で『倶会一処 患者が綴る全生園の70年』を手にし、当時の多磨全生園入園者自治会会長・松本馨(まつもと・かおる)氏に手紙を書く。それが縁となり1981年秋より多磨全生園で盲人会、入園者の生活介護の仕事に従事。1998年に退職後、精神保健の作業所、グループホームなどで働く。2017年、友人の紹介で救世軍自省館(清瀬市)で働くことになり、およそ20年ぶりに全生園に通うようになった。